rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

原発が安全かではなく廃炉を決断できるかが問題だ

2011-05-17 19:43:05 | 社会

夏の電力切迫の恐れ 全国の原発54基中42基停止も(朝日新聞) - goo ニュース

 

全国五十数基の原発のうち点検などで止まっているのは1/3あり、それらを再び稼働させるにあたって「安全が確保されなければ認められない」として議論が続いています。

 

私は「安全」か「安全でない」かの二元論で原発について議論を進めることは一種の神学論争であって結論の出ない「無駄」でしかないと考えます。なぜなら安全の基準をどこに置くかによって結論は別れるのであって、議論をしている人達が全て同じ基準で考えていることはないと初めから解っているからです。

一本の直線のどこかに区切りを置いてその右側を安全、左側を危険と結論づけるとして、区切りを置く場所が各人違っているのに議論だけしている図を考えて下さい。

 

このような議論では大抵その時点で力が強い勢力の言い分が通って結論が出ます。だから意味がないのです。

 

今回の福島原発の事故では1号機では隔離時復水器、2−3号機では隔離時冷却系が停電になって作動していたことは明らかにされました。電源なしでも作動できるそれらの系が動いているうちに電源の確保ができないと現場が判断したら、廃炉を前提とした海水注入などの非常措置が早期に取られていれば燃料のメルトダウン、爆発による福島全体の核汚染といった今回の悲劇は避けられていたと予想されます(http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20110510/219895/?rank_n)。全ては「廃炉」を決断できる東電首脳の「危機に直面した時の決断力の欠如」が問題であったことが明らかなのです。

 

従って、原発という装置の安全を議論するのではなく、原発を管理する人間の決断力を問うことがまず第一になされるべきだと私は思います。危機に際して現場が「廃炉を前提とした処置が必要」と判断したら電力会社の首脳は即座に「廃炉」を決断できるか、と各自治体は問えばよいのです。「できない。」という答えならば原発の再開は許可するべきではないし、原発そのものも無くした方がよいでしょう。或いは「廃炉の決断権は自治体が持つ」と契約を変えてしまえば良いと考えます。「即座に決断できる。」と責任を持って電力会社の首脳が答えたならば、問題が起った場合、個人の刑事責任も含めて問うことも確認の上で再開を許可したらどうでしょう。今回の原発は「人災」であることを忘れてはいけないと思います。

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