トマス・ホッブズ(1588−1679)はその主著「リヴァイアサン」で万人が本来持っている自然権を全く自由に追求すると「万人の万人に対する戦争状態」が現出されて、結局誰も幸せになれないからその権利の一部を国家という共同体に差し出すことによって安心して個人の自由が追求でき、幸福になれるという「しくみ」としての国民国家を定義づけて提唱し、後の社会契約論などにも繋がって行きました。
この「リヴァイアサン」というのは旧約聖書に出てくる絶対的な力を持った海獣の事で、後に国民の安寧のために作られたはずの国民国家が、外に対しては自国の利権拡張のために意思を持った怪物のように侵略や戦争に国民を駆り立てて行く事までホッブズが予見していたのかはまだリヴァイアサンを読み切っていないので分からないのですが(かなりの大部なので中公バックスの古書を読んでいるのですが読み切れない)興味深い所です。もっとも当時は君主制からなる国家像しかなかったからこのイメージだったのかも知れませんが。
ところで現在のグローバリズムは財閥やファンド、グローバル企業が自由に利益を追求する事で国家をも翻弄する事態となり、万人にとって幸福をもたらしていない事は明らかです。これはホッブズが想定した「個人」がファンドなども含む「企業体」に置き換わっただけで、「万人の万人に対する戦争状態」になってしまっているのではないか、と私は感じます。だからグローバリズムにとっての「リヴィアサン」となる何かが必要になっているのが今日の世界ではないかと思います。
漠然としたアウトラインとしては、企業体の差し出す一部の権利は「利益の上限設定」であり、それを管理する組織は何らかの国際機関にならざるをえないと思うのですが、こういったものが簡単にできないであろう事は想像に難くありません。
そもそもホッブズらが想定した「各人が追求することが可能な自由の究極の姿」が現在のグローバリズムになったと言える面もあります。現在の米国は変質してしまったように見えますが、建国の理念においては、米国は国家権力をがんじがらめにして、州の独立性を高め、国家が不当な弾圧をすればいつでも州によって国家に対抗することができるということになっていて、そのために州兵の制度が今も残っている訳です。また各人が銃で武装することが許される伝統も政府への抵抗権の保証によります。だから、各人が自由な経済利益を追求して、戦争によらず国家の枠を超えて活動して行く事は自然権の行使の結果と言えるかも知れません。リヴァイアサンとしての国家に欧州の君主制が合わず、それに対する完全な否定としてできたのが米国ですから、その米国で発達したグローバリズムは自由の究極の姿と言えなくもないのです。ただ一部産油国や中国などの現在における国家資本主義の出現は各人の自由の追求とはまた別物に思いますし、やはり「野放し」はいずれ世界を不幸に陥れる結果になると思います。
左派系の社会学者であるアントニオ・ネグリはマイケル・ハートとの共著「帝国(2000年刊、グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性)」でグローバリズムによる国家を超えた圧倒的な力を「帝国」と表現して、それに対抗しえる民主的勢力は、NGOなどを主体とした比較的バラバラの緩い結合を持った勢力で「マルチチュード」と表現されるものだと述べています(これも大部なのでまだ読み切ってませんが)。大海に漂う大きな網みたいなものを想像すると、それぞれの結節は小さく、弱い結合であってもそれが繋がって網になっていることでクジラを捉えることもできるし、原子力空母のスクリューに巻き付いて航行不能にすることもできるかも知れません。しかし網は漂っているだけで全体を正しい方向に導く役目を果たすことはないように思います。私の感想では、この「マルチチュードのありよう」はどこかアルカーイダなどのテロ組織のあり方と似ていて、強大な統制のとれたパワーが力技で押しつぶすことを不得意とする典型的な組織のありようと言えます。それぞれが小さな結節を作って独立しながら緩く結合し、秩序だったヒエラルキーを持たないという点で、日本の伝統的なヤクザ組織に対する関東連合のようなあり方とも似ています。だから警察は十分な取り締まりができない状態になっていますね。
どうも秩序だった体系が好きな日本人としては、このマルチチュードというのは座りが悪いように私は感じてしまいます。NHKブックスから「マルチチュード(上下)」や続編の「未来派左翼」などの本も出ていて、このネグリ氏には未読ながらどうも昔ながらの石頭で意固地な左翼のイメージが付きまとうので「良い点はついているのだけれど、何だかなあ」という感も否めません(偏見かもしれませんが)。
日本では右翼左翼の定義が世界基準から離れている(何故インテリは左翼が好きか)ので、私のような保守から見ると左翼とか地球市民とか言っている人はグローバリストそのものに見えてしまうのですが、各民族や歴史に基づく社会のあり方を互いに尊重しつつ、行き過ぎたグローバリズムにブレーキをかけてゆく協力的で強力な何らかの権力を作って行く必要がどうしてもあると感じます。ネグリ氏の求めるものがこのようなものならば共感できるのですが。グローバリズムにとってのリバイアサンを真剣に考えて行く時期にきていると私は思います。
追記
ホッブズのリヴァイアサンを読んでみると、大部の中で題名であるリヴァイアサンについて書かれている部分が意外にも少ないことが分かります。ホッブズは万民が持つ権利の一部を移譲することで成立する国家(コモンウエルス)(この主権者は独裁者であったり、一部の者であったり、万民から選ばれた一部の者であったりすることで政治体系が変わるのですが)が統治において用いる処罰と報酬という権力のうち、前者をリヴァイアサンという名に当てています。
—第28章からの引用—
私はこれまで人間とはどのようなものであるかを、その統治者の強大な力とともに述べてきた。私は後者を「リヴァイアサン」に比し、その比較を「ヨブ記」第41章の最後の二節からとった。その中で神は、「リヴァイアサン」の強大な力について述べ、彼を「誇り高ぶる者の王」と呼ぶ。「地の上にはこれと並ぶものなく、これは恐れのない者に作られた。これは全ての高き者を蔑み、全ての誇り高ぶる者の王である。」しかし他の全ての地上の被造物と同じく、彼の生命にも限りがあり、衰えを免れない。さらにまた、天上には彼が恐れるべきもの、そしてその法に従うべきものが存在する。従って私は次の諸章において、彼のわずらう種々の病と彼の死の諸原因について、さらに彼がいかなる自然法に従うべきかについて語る事にしよう。
(引用おわり、世界の名著(ホッブズ)中公バックス28永井道雄 訳)
当時は民主主義の概念が現在のようには存在しなかったので、貴族制や専制をかなり当然の事として記述する部分が目立つのですが、ここでも述べられているように所詮人間界の決まり事は「神の法」には絶対的に従わないといけないという所がミソで、この後書かれている「どのような自然法に従うか」では個人の勝手や欲にからんだ人気に惑わされない絶対的な力と公平さといった国家の資質が社会や宗教に関連させて述べられています。また各コモンウエルス同士も外に対しては自由な個人のように振る舞って利益を追求するという記述もあるので、ある程度将来の国家間の戦争のありようを予見していた部分もあります。
「グローバリズムにとってのリヴァイアサンは何か」について、ヒントになりそうな記述は残念ながら見つからなかったのですが、何かあるとすれば、記述全体に流れる絶対的な力(神の法、或は神そのもの)に対する畏怖というものを万民が持っているという認識がコモンウエルスを成り立たせ、リヴァイアサンの理不尽さを諌めるという事かも知れません。答えにはなりませんが、「個人の無制限な欲望の追求は神の意思に反し、幸福をもたらさない」という共通の認識がグローバリズムを統制するコモンウエルスを作る上で必須の認識のように感じました。