rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

グローバリズムは正規分布の社会を認めない

2013-06-19 22:53:59 | 政治

正規分布(normal distribution)はその英文名の通り、大抵の世の中の事象のあり方を示した物であると考えられます。偏りのない試験問題を多くの学生に回答させると、平均点付近を得点する学生が最も多く、出来の良い人、悪い人が図のようにばらけて行きます。この平均点からの離れ具合を数値化したものが、T scoreと呼ばれる偏差値というもので、東大や医学部に行く偏差値70以上というのは全体の上位2.275%に属する秀才達という事になります。

 

この分布は試験の点数のみならず、歌の上手さ、絵の才能、走る早さ、体重、性格の良さ、金銭欲、金儲けの才能、見た目の良さなど、全てに渡って人間も動物もこのような分布を示すと考えられます。大事な事は、一人の人間が全ての項目について偏差値が低かったり、高かったりするものではなく、必ず項目によって平均以上であったり、以下であったりするものであり、上手く右端にあるような項目を生かした職業に就くとどんな人でも成功する可能性が高いという事です。まあ普通は平均より良いと思われるものを職業としていれば「御の字」だという事でしょう。そしてある特定の項目における正規分布上の位置によって人の存在価値が決まるものではない、という事も大事な事です。

 

つまり世の中というのは「全ての個体が正規分布の中のどこかの位置を占めている」事によって成り立っているのであって、ある項目において下位15%の人達は切り捨てて良いというものではありません。何故ならば、その下位15%の人達も他の項目においては上位1%の中にいるかも知れない訳で、特定の項目によって下位の人を切り捨てる事が社会にとって取り返しのつかない損失になる可能性があるからです。つまりある項目において正規分布上の下位1%以下の人達も含めて、全ての人達が生きて行ける社会というのが「正しい社会・フェアな社会」であると言えるのです。

 

しかしグローバリズムにおける原則は「強者生存」にあります。同様の商品であれば、より安く、より高品質に提供できる者だけが生き残るのがフェアであると定義されます。結果として競争に負けた者は脱落し、脱落した後の事は自己責任として自分で何とかする(別の道で生きるか出直して勝てる状態になる)事が原則になります。世界が広く、未開拓の部分が多く残っていれば、脱落した者も未開拓の部分に移って生きて行けますが、世界がほぼ開拓しつくされていると、脱落した者はずっと脱落したままになり、勝つ者はより強力になって勝ち続け、最後は1%の強者と99%の弱者に二分化されて固定化されます。既に現在の世界はその状態に向かって7割り型収まりつつあり、残り3割りが余席を巡って中間層同士しのぎを削っているというのが現実ではないでしょうか。

 

「コンプライアンスが日本を潰す」藤井 聡 著 扶桑社新書121 2012年刊は、新自由主義を標榜するグローバリズムがかかげる「フェアな市場原理主義」的な法に従う(コンプライする)ことを日本が強いられることで、社会のあらゆる階層の人達が生きて行けるように工夫されてきた日本のシステム(例えば談合や市場参入規制)が破壊されて、社会の維持可能性(サステイナビリティ)が障害されてゆく事態が分かりやすく説明されています。正規分布を示すあらゆる能力差を示す人達が全て生きて行ける、社会が維持されるシステムこそが「フェアな社会制度」なのであって、強い者しか勝ち残れないような原始的社会は「遅れた未熟な社会」であることを我々は世界に訴えて行かねばなりません。

 

昨今の世界情勢を見るに、恐らくは欧州の古い社会(ドイツや南欧・北欧の国々)も必ずしもグローバリズムを歓迎している訳ではないと思われます。日本はこれらの古い伝統を持つ社会と共闘してグローバリズムに対抗してゆく必要があると思います。もっとも白人至上主義みたいなものもあり、もともと帝国主義で世界を支配していた人達なので、そう容易には共闘させてもらえないかも知れません。しかしグローバリズムに翻弄されて迷惑している所は彼らと共通するものも多いと思われます。

 

グローバリズムの目指す社会構造は正規分布の右半分だけのような状態と思われます。現在の世界の人口とそれぞれが持つ資産を図式化するとまさにこのような形でしょう。日本は20世紀の終わり頃には国民の8割り以上が中間層に属すると思っていた訳で、実際はどうだったかは別として感覚としては資産についても正規分布に近い状態だったと思われます。これ、実は素晴らしい事だったのではないでしょうか。「豊かな中間層が豊かな社会を築く」という事実は既に米国でも考え直されて、そのバランスが崩れてしまった状態を戻そうという機運が高まっています。今、「日本社会の先頭を切ってグローバリズムを目指す一部の人達」が脚光を浴びていますが、日本が正規分布の右半分の社会構造になって国民が幸せになるはずがありません。福祉、教育、文化政策が充実した状態を維持するには豊かな中間層がありつづける必要があります。安倍政権は10年間で国民所得の150万円増を打ち出しましたが、国民総所得が増えても、給料自体が増える訳ではないという指摘もあり、

 

実際、日本では小泉内閣の2003年から第1次安倍内閣の2007年までの5年間、「1人あたり国民所得」は約398万円から約414万円へと16万円アップしたが、サラリーマンの平均年収は443万円から437万円へと7万円減っているのである(国税庁「民間給与実態統計調査」)。

「国民総所得」が増えても企業が利益を社員に還元しなければ給料は上がらない。高度成長期の池田首相はあえて「給料を2倍に」と約束した。安倍首相が本気で企業に賃上げを求める気であれば、収入アップを成長目標にすることができたはずだ。お年寄りから子供まで「1人150万円増」なら4人世帯の年収は600万円増える。

 平成の所得倍増をいわずに「経済指標」に逃げたことが国民への最大の誤魔化しなのだ。



※週刊ポスト2013年6月28日号

 

我々は本当の豊かな社会の再建を目指して、政治・政策を選んで行かないといけないと思います。

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