御岳山の突然の噴火は47名という戦後最大の噴火被害を記録し、海外のニュースでも大きく取り上げられています。しかしニュースが報じられた当初から怪我をした人と共に心肺停止状態の方が・・名といった報道が繰り返されています。心肺停止状態Cardiopulmonary arrestというのは医学的表現で心臓の動きも呼吸も停止しているということで、蘇生する可能性も0ではありませんが、数分以上その状態であれば通常は「死亡している」ことを指します。現在心肺停止で発見された場合でも救急医療においては必ず蘇生措置が施されながら救急病院に搬送され、そこでさらに蘇生措置がなされた結果、蘇生できない時に医師により死亡が確認され、死亡が確定します。だから死亡が医学的に確定されていない状態の人を死人扱いすることは報道としては誤りであるから心肺停止状態と表現しているのだと思います。それはそれで正しいので文句を言うべき筋合いのものではなく、増して家族の無事を祈っている近親者の方にとっては医学的な確認もなしに亡くなっていると報道してしまうのは問題があるのも解ります。しかし何か違和感を感ずるのは私だけでしょうか。
20世紀のニュースであれば躊躇なく遺体で発見された人・・名と言う報道がなされていた所を心肺停止状態と言い換えることに違和感を感じているのは私だけではないようですが、報道各社の申し合わせのようなことで決まった事なのでしょう。海外ニュースではbodies(遺体)という言い方がされているようなので、これは日本だけの事態と思われます。ガザの空爆で心肺停止状態の市民300名などという報道は日本でもされてません。
以前拙ブログでも紹介したように、目の前で心臓が止まって蘇生措置をした場合を除いて、心肺停止で搬送された人が元気に退院することはほぼありません。救助隊の人達も「収容」と表現して、搬送先も病院でなく「小学校」である心肺停止の人を死者として扱う事は別に失礼ではないし、ご遺体としての礼を尽くせば良いだけではないかと愚考します。書評「日本人の心のかたち」で、日本特有の思考に「不二と両行」という特質があることを紹介しました。日本人は生きている状態と死後の状態を別物とは考えず、同一の連続した人生の続きのように捕らえ、道教の思想ではありますが、死後7日の間は家族のそばに寄り添っているとか、死後も盆にはこの世に戻ってくるとか、死後も変わらぬ心根を持ち続けて存在するかのように考えます。亡くなっている人を心肺停止状態と表現して生きている人と同様に扱うこともその辺の日本人的な優しさから来るものと理解することもできます。実際には「亡くなっている」と全ての人が理解しているものを単に言い換えているだけなので誰かに迷惑をかけている訳でもないのですから問題ないとも言えますが。
ただ医療の世界では「医者が死亡を告げるまでは蘇生を続けろ」といった教条的概念が徹底されてしまうと死後硬直が出て身体が冷たくなっているご遺体を蘇生しながら救急隊が病院に搬送してきて、病院でもいきなり死亡宣告するわけにもゆかず型通りの蘇生を儀式的に一定時間行ってから死亡宣告するという無意味な医療を続けることになり、私は賛成しかねます。というか実際にそのような医療が救急病院では行われています。高齢者の安らかな死や終末期医療を考える時、眠るように亡くなった方を「心肺停止状態」として蘇生の対象にするような事態は絶対に避けるべきだと思います。その意味で「心肺停止状態」を医学的な用語でなく、まるで使いやすいマイルドなご遺体の表現として多用するようなことは避けて欲しいと私は考えます。