日本では人質がISILに殺されてしまった結末に対して、首相自ら「テロに屈しない」「犯人に罪を償わせる」と宣言をし、マスコミやネット上などでもテロリスト達に金を払って人質を開放してもらうのは良くない、テロ組織には力で対応すべきだ、という論調が見られます。しかしどうも私には「テロに屈しない」という言葉をその意味で使うことには違和感を感じます。
「テロに屈しない」ということばの意味は、少なくとも欧州においては、「暴力によって自由を奪うことはできない」という意味であって、誘拐された人質に身代金を払って釈放してもらうかどうかという問題ではないだろうと思います。誘拐事件の解決方法には様々なアプローチがあってしかるべきであり、基本は人質の人命尊重ですから、一度は身代金を支払った上で次の手を考えることもあって良いはずです。欧州では、封建主義時代における王や貴族の圧政や近世におけるナチズムの暴力に対して「自由を勝ち取る」ために民衆が団結して戦って来た歴史があるから、暴力によって表現の自由を制限されることは断じて許さないと言う意味で「テロに屈せず」「私はシャルリ」と言っているのであると私は思います。
これに対して、日本では体制側に対して暴力で立ち向かう相手に対して妥協しないという意味で「テロに屈せず」と表現しているように思います。これでは通州事件(1937年中国軍が日本特務機関と日本人居留民婦女子を虐殺した事件)や盧溝橋事件に対して暴支膺懲で断固とした対応を取ると戦前の日本が言っていたことと同じ意味になってしまわないでしょうか。本来「テロに屈せず」とはリベラルな側が力で制圧しようとする権力者側の横暴に対して使うべき言葉で、欧州ではだから左翼的勢力の政党や政策が伝統的にかなり受け入れられているのだと思います。
ISILは権力者ではありませんが、暴力によって表現や発言の自由(といってもイスラムを批判する自由にすぎませんが)を制限しようとしたことに対してフランスの民衆は怒っているのだと思います。だからウクライナや東欧で芽生えている暴力的右翼やネオナチに対しても彼らは危機感をかなり持っていると思われます。
一方で、米国では、建国の理念が絶対的に正しい(自由と民主主義に基づく国家)ということになっているから、米国の体制(絶対的な正義)に逆らう者は力で従わせれば良い、という理屈を建国以来貫いてきていると思われます。だから原住民(インディアン)の抵抗にもスペインの支配地域にも、20世紀になってからは日本、アジア、中東、その他米国の意に逆らう国は全て圧倒的な力でねじ伏せてきました。だから相手が強くても弱くても一切の抵抗を認めず、力でねじ伏せることを「テロに屈せず」と同義と感じていると言って良いでしょう。これは戦前の日本が「皇国の恩寵(絶対的な正義)に服しない輩を懲罰する」とした暴支膺懲の理屈と基本的には同じと言えます。一方的に相手の理屈が正しいとされて力で従わされる方としてはたまった物ではありません。米国は国民の多くが犠牲になりながらも自分達の自由を権力者から勝ち取った歴史がありません(独立戦争は英国側があまり真剣でなかったように見えます)。本当は現在の牢獄のような米国の拝金資本主義社会から、米国の99%の民衆達が真剣に怒って金融経済支配層から自由を奪い取る時、(それにはかなりの犠牲を伴うことになるでしょうが)その暁には「暴力で自由を奪おうとすることに反対する」という意味で米国においても「テロに屈せず」というフレーズが使われる事になるでしょう。
「暴力には暴力で対抗する」と宣言することが「テロに屈しない」と同意ではないと私は思います。