映画「アメリカン・スナイパー」2014年 ワーナーブラザース制作 原作 クリス・カイル クリント・イーストウッド監督、ブラッドリー・クーパー主演
あらすじ(wikipediaから抜粋)
父親から「お前は弱い羊達を守る牧羊犬(シープドッグ)になれ、狼にはなるな」と教わったクリス・カイルは1998年にアメリカ大使館爆破事件をテレビで見て海軍に志願する。
厳しい訓練を突破して特殊部隊ネイビー・シールズに配属され、私生活でも「タヤ」と結婚して幸せな日々を送っていたカイルであったが、アメリカ同時多発テロ事件を契機に戦争が始まりカイル自身も戦地へと派遣される。
イラク戦争で狙撃兵として大きな戦果を挙げたカイルはいつしか軍内で「伝説(レジェンド)」と称賛されるようになるが、敵からは「悪魔」と呼ばれ懸賞金をかけられるようになる。カイルは1000m級の射撃を行う元射撃オリンピック選手の敵スナイパー「ムスタファ」と遭遇し、以後何度も死闘を繰り広げる。凄惨な戦いは徐々にカイルの心を蝕み、戦地から帰国するたびに家族との溝は広がっていく。
4度目の派遣でサドルシティに防護壁を建設する工兵を狙うムスタファを倒すという任務を受けたカイルたちはムスタファとの戦いに勝ち、砂嵐の中で敵の包囲を突破して友軍の装甲車に間一髪乗車したカイルは戦場を離れていく。
カイルは海軍を除隊するが、戦争の記憶に苛まれ一般社会に馴染めない毎日を送っていた。しかし傷痍軍人達との交流を続けるうちに、少しずつ人間の心を取り戻していく。しかしある日、退役軍人の一人と射撃訓練に出かけた先でその男に殺害され、最後に実際のカイルの葬送の記録映像が流されエンドロールとなる。
感想
見終わった時の最初の感想は「何とよくできた映画であることよ」という感嘆でした。ある意味娯楽映画として2時間以上の長尺ながら全く飽きさせない。主人公のカイルは西部劇の主人公さながらに純朴で「自分は邪悪なオオカミから羊を守る牧羊犬である」と信じきって従軍し、好敵手の狙撃手ムスタファと手に汗握る狙撃戦を戦い、戦争と家族との日常生活の断絶にも人間的に悩むという解りやすい構成になっている。これに実戦さながらの戦闘シーンやセットが組み合わされてカイルのスコープ(銃眼)を通して観客も戦闘に加わるようなスリルある作りになっています。この映画「好戦的」か「反戦映画か」と問われれば私は「戦争礼賛映画」という判定を下すでしょう。米国の一般民衆はカイルのような西部劇のヒーローのような生き方が好きであるから、公開後短期間で戦争映画としてまれに見る興行成績を収めたことも理解できます。
しかし私の古い友人はこの映画を見て、戦争の傷が癒えて「さあこれから」という時に何の理もなく「スパッと」物語が終わってしまうあっけなさ、この最後を見ると「反戦映画」と考えざるを得ない、もっと殺害に至る経緯のようなものをきちんと描いたら反戦と言えないだろうけど、と感想を漏らしました。この意見にも一理あると思います。
クリント・イーストウッド監督作品として、2006年に公開された硫黄島二部作「硫黄島からの手紙」「父親達の星条旗」では、私は米軍の戦う意義を「単なる旗」に象徴させ、日本軍の硫黄島守備隊が「家族への手紙」に戦う意義を象徴させたことと好対照であって、犠牲が多かった米軍に対してかなり厳しい描き方であると評しました。また2008年に公開されたグラン・トリノでは主人公は朝鮮戦争に参戦し、国家のためとは言え、北朝鮮の少年兵を殺してしまったことに心を病んでおり、その後のベトナム戦争の犠牲になって米国に移住してきたモン族の少年に米国の未来を託して自分が大切にしている古き良き米国の魂といえる名車「グラン・トリノ」を譲ります。ウオール街で拝金主義的な仕事をしている自分の子供には米国の未来を託していません。つまり米国の現状にはかなり批判的な意見を持っていると感じていました。
そんな「イーストウッド監督が単なる戦争礼賛映画を作るだろうか?」というのが私の興味の中心でもありました。だから実際見てみるまでは何とも言えないと思っていた次第です。しかし結果は「見事な戦争礼賛映画」だったと私は思います。多分イーストウッド監督はクリス・カイルの事、生き方、考え方が好きだったのだと思います。だから彼の人生を通じて「米国の現状に疑問を投げかける単なる反戦映画は作りたくなかった」というのが本音ではないかと思います。
ただこの監督が全面的にアメリカ万歳、政府万歳の映画を作るはずがない、という確信も私にはあります。それはこの映画が作られた年代・時期に鍵があるように思います。劇中主人公は戦闘中なのに頻繁に奥さんと電話で話すシーン(普通軍規に反するからありえない)があります。また「家族をテロリストから守るために戦うのだ」と主人公が友人を諭すシーンもあります。これは硫黄島二部作で日本軍に共感した「家族のために戦う」を今回は米軍がイラクで実践しているというアピールだと捉える事ができます。また描かれる敵は野蛮なテロリストで女子供も平気で犠牲にし、同胞を殺すことにも全く躊躇しません。これは昔の西部劇でインディアンが野蛮人として描かれ、カウボーイやガンマンが市民を守るヒーローとして描かれる手法に似ています。主人公はアルカーイダに代表される野蛮なテロリストから羊のような無辜な米国民を守るための正義の戦いをしているという姿勢を全く崩しません。後半で主人公のカイルも度重なる戦役で精神的に病んでしまうのですが、比較的軽く克服してしまいます。実際には毎年参戦した兵士から多くの戦争神経症や自殺者が出て社会問題化していますが、この映画では「生きているだけで感謝です」と健気に立ち直る傷痍軍人達が多く描かれます。ここまで明確に単純明快な論理でイラク戦争を描かれてしまうと2006年の戦争開始3年目くらいまでならまだ説得力があるかもしれませんが、2014年の時点、イラクでの従軍がそんなに単純明快なものではなかったことはほぼ全てのアメリカ人が理解している時にこの描き方はかえって「ほめ殺し」のようになってしまわないでしょうか。
2014年の現状を見ると、イラクから米軍が撤退してから治安の悪化は著しく、アルカーイダの分派といえるISがイラクで残虐の限りを尽くしている。米国はシリアでアサド政権に反対して、ISやアルカーイダが属している反政府軍を支援している。一方でイラク国内ではISに攻撃を加えていて、反ISのイラク軍には米国の敵であったイランの義勇軍が加わっている、という現状を毎日ニュースで見聞きしている米国の国民にとって、「イラク戦争は無辜の米国民をテロリストから守るための正義の戦い」という2003年の開戦当初米国政府が用意した正論で最後まで押し切られてしまう映画を作られることは少なくとも米国の1%の支配層にとってかなり耳の痛い内容なのではないかと思います。「イスラムにもいろいろと事情があるのだよ。」「参戦した兵士達も苦しんでいるからそこそこに戦争を終わらせないとね。」という映画を作ってもらった方が、中東からの撤退戦略、アジア(対中国・対ロシア)へのシフト、オフショアバランシング(米軍以外に戦わせる=ウクライナやイエメンなど)に戦略を変えて来ている現在の米国支配層の人達には都合がよかったのではないかと思われます。
私の友人が指摘するように、この映画の終わり方は「えっ??」という感じのあっけなさです。「主人公は殺されました」と一文出て、後は主人公が埋葬される葬送ラッパが流れ、ヒーローの死を惜しむ米国民の実際の記録映像と全くの無音のエンドロールが続きます。「この戦争は正義の戦争だったんじゃないのか?この後どうするんだ?」という疑問を米国民が支配層に投げかける、このあくまでも無音に徹する終末はそんな意味合いを感じずにはいられません。だからこそ終わる直前まで、戦争礼賛の西部劇のようなヒーローを描く戦争映画を監督は作ったのではないでしょうか。勿論実際のクリス・カイルへの尊敬を込めて。
この映画、一般国民からはアカデミー賞の呼び声が高かったのですが、「上の人達」は敢えてフェイク的なヒーローを描いた「バードマン」を作品賞に選びました。2010年の作品賞「ハート・ロッカー」の描き方までは良いとしても、「色褪せてしまった2003年開戦時の政府の論理で貫かれた映画を2015年のアカデミー賞にするのは勘弁してくれ」という支配層の意見がどこかから入ったのではと勘ぐりたくなります。