這うようにして出かけたオチャで、いまNHKで表千家やってるでしょう、今夜よねという話が出て、私は麻生圭子がどうも嫌いなんで見ないんですと言った。何で嫌いなの。生理的にというかなんとなく。皆さんちょっと困った様子。
困った様子だと勝手に思い込んだことが問題か、その前に、ホステスがどうも嫌いだという理由で見るべきものを見ないという事実か、言う必要もないそれをちゃらりと言うことか。
其のやうな道理において世にあまた在る不可解なる犯罪に至るとなむ云々。え? 近松ならずとも、つまりは刃傷沙汰となむ。え?
あぶなさそうなひとはこわくなくてあぶなくなさそうなひとがこわい、となればまた、誰しもね、となればまた、記号化は峻別しやすく、精神・神経障害者のノーマライゼーションもしくは野放しに関しては根強い恐怖の通底音がある。
もともとは周囲の者が、自分たちを困らせる、都合の悪い者を押しやったところであり、いまはプラス、自身の苦しみをこらえ切れぬ者が行くところかとイメージするが、どちらにせよ、背番号社会でどうやって潔白なる身の証を立てるのか、被害妄想狂かもしれぬ一般人に向かって。
読まない本に中島義道の「私の嫌いな10の人びと」がある。中島さんというひとは私は知らないが誰ぞによればおもしろい哲学畑のひとだそうで、透けて見えそなその中身はなかなかおもしろそうだ。看板ありもしくはなき障害者をそっとしておくか排除するかは個人のなちゅらるな感覚である。
病院に行く病人にせよ嫌われるだけの一般人にせよ、あなたが優しく温かく扱えば、つけ上がって暴挙に及ぶか、もしくは逆にあなたに猜疑心を抱いて暴挙に及ぶかもしれない。
堀切のユミちゃんは葉子さんの友達で何かの折に葉子さんと一緒にユミちゃんちに行った。次々に家族がにこにこと出てきて炬燵を囲みよそ者を歓待するという、まるでテレビドラマみたいなうちだった。私はその日みんなの温かさに触れ自分もそれに合わせて自然に振る舞えたことにほんわかした幸せもどきだった。
忘れたころ葉子さんが笑って言った。ユミちゃんちで、みんなであんなにずうずうしいひとははじめてだって笑ったんだって、と。
程度とかバランスがわからないというのはおそろしい。
ただ黙ってにたにた。を超えてはいけないことの自覚が足りなかったね。
などとはいわゆるひとつのを冠した大阪のオバチャンならうろたえたりなどしない。
わかっちゃいるけどやめられないというかその不愉快な顔が私の発したどの言葉によるものかがわからないという基幹的属性に触れながらも、とくに気にしていないと思っていたひとにやさしく言われた。あなたの卑下と気の遣い方はひとを疲れさせストレスを与える。ひとを、だ。ひと一般。ストレスだ。
自身のなかに持っていた言葉なのに3時間未満死にましたね。申し訳無い、とはこのことだ。
光長閑き春の陽にけつろんは、ぐうたらでろりん内職です。ありがたやありがたや。
なすすべねえべなあ。