鶴丸城 御楼門
鹿児島県歴史・美術センター黎明館
茶の湯と薩摩
漢作唐物肩衝 銘 平野(平野肩衝)
大名物。胴に同一間隔で六本の竪箆の筋がある。総体黒飴釉色であるが、これは享保16年 (1731)桜田藩邸で火災に遭った為。
天正年間に商人の平野道是が所持しており、後に豊臣秀吉から島津義弘に文禄の役の恩賞として与えられた。
島津家重物の筆頭に挙げられており、寛永7年(1630)3代将軍・徳川家光の桜田藩邸御成でも用いられた。
島津義弘書状
(天正16年)6月6日付、島津忠恒(又八郎・家久)宛。天正16年上洛した義弘は6月6日大坂城山里丸にて関白秀吉の茶会に招かれた際の内容を記す。参加者は秀吉、義弘、家臣の伊集院忠棟、細川幽斎、千利休、津田宗及。道具には武野紹鷗秘蔵の風炉、今井宗久より召し上げた白天目、大友宗麟より召し上げた似たり茄子茶入。薄茶席では荒木道薫(村重)が秘蔵していた姥口釜と備前水指が使われた。
茶席の様子を詳細に記す義弘からは茶の湯への関心の深さがうかがえる。
古田織部書状
(慶長17年)十一月廿二日付、島津義弘宛。上田宗箇が織部の名代として薩摩に派遣され陶磁器制作の指導にあたり、織部がその焼物に対して出来の悪さを指摘してる。また島津義弘が別途送ってきた茶入については、釉薬は黒を多く使用し、所々に白い釉薬が混ざるのは良いです。少々背を高くし底部がすぼまらないほうが良いと記している。
織部の指導した茶入は肩衝形で、これが「薩摩肩衝」として知られるもの。
御成之記
国宝。寛永7年(1630)4月18日の3代将軍徳川家光の江戸桜田藩邸への御成の内容を記したもので、
相伴には白河藩主・丹羽長重と会津藩主・加藤嘉明が務め、道具には夢窓疎石の横文字掛物、平野肩衝、割高台高麗茶碗、耳付信楽水指そして茶杓は利休作などを用いている。
島津家では御成の為に、主殿(広間)・寝殿(書院)・数寄屋(茶室)・納炬の間・鎖の間などを新築しており、数寄屋は「古田織部、指図之写三畳台目」とあり島津家では織部の茶室が使われ、また幕府の命により切腹させられた織部の死後も徳川将軍家では織部の茶の湯が浸透していたことが分かる。
その2に続く
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