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熊本城
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熊本県立美術館 細川コレクション展示室
細川コレクション展 第Ⅰ期
期間:4月2日(火)~6月16日(日)
「永青文庫の所蔵品を通じて、熊本の歴史や美術、そして細川家の大名文化を総合的に紹介する細川コレクション展。第Ⅰ期では、国替えによって細川家が熊本に入部した時の当主・細川忠利ゆかりの甲冑や歴史資料、(中略)などを展示します。」(公式より)
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細川三斎書状 細川忠利宛
寛永9年(1632年)5月15日付の忠興から子の忠利への手紙。
内容は忠興が聞いた噂話で「徳川家光が老中・土井利勝を成敗しようとしているので先手を取ってこちらから家光を討とう」との内容の書付が幕府代官井上新左衛門に届き調べたところ熊本藩主加藤忠広の嫡男光広によるものだと判明。ただし忠興は書付の内容を疑問視している。
結局この事件は、加藤光広による悪戯と判明したが、徳川家光は熊本藩加藤家を改易処分にしている。
熊本には小倉より細川忠利が入った。
細川忠利自筆書状 細川光尚宛
寛永9年(1632年)12月10日付忠利より嫡男光尚への手紙。
12月9日熊本城へ入城した忠利は翌日江戸にいる光尚へ手紙を出し、熊本城の大きさ広さに驚いている様子を知らせている。加藤清正築城の熊本城は現在でもその巨大さに驚かされるが400年前の忠利ならなお更の事だったろう。
細川忠利所用 銀札啄木糸射向紅威具足
兜に山鳥の尾の立物。基本的には父忠興の具足に近いが銀札・啄木糸威さらに左側の草摺のみ紅糸威とかなり鮮やかな具足となっている。忠利が島原の乱で着用したと伝わる。
宮本武蔵自筆書状 松井興長宛
1640年熊本にやって来た武蔵が細川家家老の松井興長に送った手紙、数少ない直筆の書状。内容は1637年の島原の乱では小笠原勢として武蔵は参戦しており、その時興長と親交があった事。島原の乱後は江戸・上方に居た事を述べ、少し用事があり熊本へ来たのでご挨拶に伺いたい。と云ったもの。
この手紙が書かれて約1ヵ月後に武蔵は細川忠利の客分となっている。
唐物尻膨茶入 浅野尻膨
下部が膨らんだ形をしており、一ヶ所黒褐釉のなだれがあり景色となっている。
忠臣蔵で有名な浅野内匠頭長矩の祖父である浅野長直より細川忠利に贈られた。