アオザイには様々な色や柄、形状、素材がある(ハノイ市)
ベトナムの伝統衣装「アオザイ」が進化している。歩きやすい着丈が短めのアオザイをカジュアルに着こなしたり、異文化と融合させた大胆なスタイルに挑戦したり。伝統美を生かしつつ、自由な発想で新しい楽しみ方を見つけている。
若いデザイナーによる新興ブランドも登場し、情報と流行に敏感なベトナム人の関心を引き付けている。
「好きに楽しめばいいのよ」。首都ハノイ市で薬店を営むフュオンさん(39)はアオザイの自由な着こなしを楽しむ。膝下までの短いアオザイを選び、ジーンズとスニーカーを組み合わせる日も。「バイクにも乗りやすいしね」と快活に笑う。
フュオンさんは1984年生まれ。その成長はベトナムの経済開放期と重なる。築き上げられた社会主義的な仕組みが次々に覆り、ベトナム人の生活や価値観が激変した時代だ。
「細かなルールは気にしない」とフュオンさんは話す。「一目見てアオザイだと思えたら、それがアオザイよ」
ベトナム語で「アオ」は衣、「ザイ」は長いを意味する。
男性用もあるが、一般的には女性用がよく知られている。その名の通り、足首まで伸びた着丈の長い上着が特徴で、幅広のズボンを組み合わせるツーピースが基本だ。ボディーラインがくっきり見えるほどウエストはくびれ、側面には腰までスリットが入る。
SNSで若者に人気広がる
アオザイが「民族の誇り」になるまでの道のりは長かった。1940年代、社会主義国の建設を先導した指導者ホー・チ・ミンは一時、アオザイを着用しないことを奨励したという。
長い上着は仕事の作業効率を下げ、生地も無駄になると考えたからだ。貧困が伝統衣装に影を落とした。
地域差はあるが、50年代からアオザイの着用は徐々に減ったとされる。80〜90年代にかけての経済成長もアオザイ離れに拍車を掛けた。
普段着から旧正月(テト)や結婚式で着る特別な装いとなり、古風な伝統衣装と見られるようになった。ところが近年、アオザイが若い世代の注目を集めている。
ハノイの人気観光地であるホアンキエム湖。平日、休日の隔てなく、アオザイ姿の若い女性たちが練り歩く。多様な色柄や形状、素材にそれぞれの個性が垣間見える。
アオザイ人気に火を付けたのは、若者が夢中になるSNS(交流サイト)だ。色とりどりのアオザイは人目を引きやすい。
話題の写真スポットにはアオザイ姿の女性たちが押し寄せる。
純白のアオザイを女学生の制服にする学校もある。ベトナムアオザイ文化クラブ会長を務めるデザイナーのホアン・リー氏は「アオザイは記念日だけではなく、日常的に着られるファッションになってきた」と話す。
妊婦向けのアオザイも
形状や色柄、素材をめぐる制約の少なさが、クリエーターの創造力をかき立てるのだろう。
書き入れ時のテトが近づくと、新進気鋭のデザイナーたちはこぞって伝統とトレンドの融合に挑戦する。
肩を大胆に露出した「オフショルダー」や大きなリボンをあしらう「リボンモチーフ」を取り入れ、古風な伝統衣装がモダンに生まれ変わる。
流行のバッグとの組み合わせを楽しむ女性もいる。「今年は『紫』がトレンドよ」。ハノイでアオザイ店を運営するグエットさんは、ネックレスまで紫色で統一したコーディネートを推す。
アオザイの新しい価値を追求する新興ブランド「セオ・ソ」は、おなか周りにゆとりを持たせ、妊婦でも着られるアオザイを用意する。細身のくびれたデザインに拘泥していては生まれない発想だ。
実は、アオザイの起源はよくわかっていない。1744年、当時のベトナム中・南部にあった広南国の王が国民に着せた服が原型という。
中国清朝のチャイナドレスが源流との見方もあるが、隣国との微妙な関係からか「中国起源説」にベトナム人は露骨な不快感を示す。ただ、古今東西の様々な文化の影響を受けてきたことは間違いない。
フランス領だった1930年代、インドシナ美術学校に学んだ若手画家のグエン・カット・トゥオンがパリのファッションをヒントに細身でフリルの付いたアオザイを考案した。60年〜70年代にはヒッピーなどの米国文化も吸収して斬新なデザインが登場した。経済開放下の90年代になると、国際社会でベトナムの象徴になった。
「これからはベトナムにとどまらず、世界中の人々にアオザイの価値を伝え続けることが大事」。ベトナムアオザイ文化クラブのリー会長はそう強調する。
アオザイは常に新しい感性と溶け合って進化してきた。大国と伍しつつ、移ろいゆく時代をしなやかに生きるベトナム人のように。(ハノイ=新田祐司)
日経記事 2023.12.27より引用