アグネス・スメドレー(1892-1950)
上海に居を構えたスメドレーは、西洋人女性ジャーナリストの顔を最大限利用した。
紹介した自伝的小説『大地の娘』の評判はことのほか良く、作家の顔も持った。 彼女はたちまち広い人脈を築いていった。
米、インド、ドイツなどからやってきた左翼知識人・ジャーナリスト、中国人、反蒋介石グループなどとの交友が始まった。
そうした人物の中には作家魯迅や孫文の未亡人宋慶齢らがいた。 スメドレーは、宋慶齢の手紙を代筆・校閲したり、スピーチ原稿を書くほどに中になった。スメドレーは、中国事情をよく知る西洋人ジャーナリストのスターとなった。
当時の上海は人口三四〇万人をもつ中国最大の都市であった。 町のおよそ半分が外国勢力の祖界地となり、総元締め役が英国でであった。
上海は西洋列強がもっとも経済的進出に成功した中国敗北の象徴でありながら、そうした勢力への財協力でを成す中国人富豪も現われていた。 アヘン売買と売春は三つのグループが仕切っていた。(注:杜月蔣笙、張嘯林、黄金栄は、上海マフィアの三大ボス(三大亮)と呼ばれていた)。
上海はアクの強い西洋人にとってパラダイスであった。この頃の英国は、インド独立派の動きを警戒していた。
当然にその活動を支援していたスメドレーの中国入りを監視していた。英国は、英国領事館を通じて彼女を中国から追放する工作を繰り返し仕掛けたが失敗した。
英国の彼女に対する警戒はインドの小村(Meerut:デリーの東およそ一六〇km)での裁判記録(一九二九年三月ニ九日)で分る。 英国はこの村で三一人の共産党員を英国王(英国)に対する反逆罪で起訴していた。
逃亡中の五一人も同時に起訴されていたが、その中にスメドレーの名もあった。 英国が、彼女を要注意人物としてマークしていたのは確かなことであった。
リヒャルト・ゾルゲ(1895~1944)
リヒャルト・ゾルゲ氏はソ連の伝説的なスパイ。
日本で「ラムゼイ」や「インソン」という偽名で活躍し、死後ソ連邦英雄の称号が贈られた。ゾルゲ氏は、ナチス・ドイツのソ連侵攻の正確な日付を把握し、1941年9月には日本がドイツ側の戦争に参加しないという情報をソ連に伝えていた。この情報により、ソ連は1941年秋、シベリア師団をモスクワ防衛のために配置させることが可能となった。
一九三〇年一月、ソビエトのドイツ人スパイとして、後に世に知れるリヒャルト・ゾルゲが日本船に乗って上海に現れた。
ゾルゲも表向きは西洋人ジャーナリストであった。ドイツ穀物新聞『Getteid Zeitung』の特派員として、中国の農業事情の研究が名目の上海訪問だった。
しかし、彼はコミンテルンとの関係を敢て絶ち、赤軍第四本部軍事情報機関(GRU)に所属していた。
当時、上海の共産党組織は壊滅状態にあった。 そのためソビエト赤軍は、極東情勢全般だけでなく、「蒋介石南京政府の政治的・軍事的力の調査」をゾルゲに命じていた。
ゾルゲは、上海では地下に潜った共産主義者との直接接触を避けるよう指示されていた。 ソビエトは、本格的スパイ育成に際しては長い時間をかけ、スパイ要員の『共産主義臭』を消す。
例えば、ソビエトスパイのキム・フィルビー(MI6、第九部長:対ソ防諜担当)の場合でも、共産主義者でオーストリア共産党員のユダヤ人女性(リッフィ・フリードマン)を妻としていたが、早い時期に別れさせている。
フィルビーはスペイン内戦では、現地に特派員として取材に入ったが、あえて親ナチの立場を取った。 MI6でさえ、フィルビーから共産主義者の匂いをかぎ取れなかった。だからこそ彼は対ソ防諜の責任者まで上り詰められたのである。
ゾルゲは、上海に入ると直ちにスメドレーを探した。 目立たずに上海の共産主義者の動向を探るために彼女を利用するためであった。
上海西洋人のスターとなっていた彼女との接触はすぐにかなった。二人は互いの存在を、ドイツやモスクワで共通の知人を通じて知ってはいたが、直接の面識はなかったようである。
ゾルゲには共産主義者臭がないだけに、上海のドイツ人コミュニティにも警戒されていない。
彼は上海におけるドイツ人の排他的親睦組織コンコルディアクラブのメンバーとなり、蒋介石の軍事アドバイザーだったヘルマン・フォン・クリーベル大佐も彼とたちまち懇意になった。
大佐は、蒋介石の国民党軍の情報をあえすけに漏らした。 そうして得た情報は、ソビエトが送り込んだ技術系スパイが構築した無線通信網を通じてモスクワに送られた。
ゾルゲは美男子で酒好き女好きだった。ゾルゲは、上海ですぐに大型バイクを買った。彼女のアパートに颯爽としてバイクでやってくる彼の姿は女心をくすぐった。 スメドレーを後部に乗せて上海市内を疾走する姿は目立ったに違いなかった。
二人はたちまち愛人関係になった。
スメドレーと親しかった陳〇笙(上海社会科学研究所)は、二人は一九三〇年の晩春から夏にかけて長期間広州周辺を旅したと語っている。
スメドレーが友人フローレンス・レノンに宛てた手紙(一九三〇年五月二ハ日付)は、彼女が冗談好きで話術に長けたゾルゲにぞっこんだったことを示している。
「彼は私を、私は彼を助けている。 要するにフィフティ・フィフティの関係なのよ。助け合ってうまくいけばいいし、それでだめなら仕方ないってこと。 いずれにせよ同志として認めあっているし、友情もある。 この関係がいつまで続くかわからない。 終わりを決めるのは私たちではなくて諸般の事情ってことね。 おそらくそんなに長く続かないでしょうけど、今が人生で最高のとき」
スメドレーとゾルゲの愛人関係が続いていた一九三〇年一一月のある日、スメドレーの友人となっていた尾崎秀美(朝日新聞上海支局)がやってきて、「鬼頭銀一なる男(注:米国共産党日本部書記)が支局を訪ねてきて、ジョンストンなる男を紹介したいと言っている」と告げた。
スメドレーは、ジョンストンはゾルゲが必要に応じて使い分けている偽名である事を知っていた。
彼女は一瞬顔を強張らせたが、「なかなかの人物です」と応じた。 彼女が、上海南京路のレストラン『冠星生園』で直々に、ジョンストン(ゾルゲ)を尾崎に紹介したのは、この数日後であった(注:スメドレーではなく、鬼頭がゾルゲと尾崎を会わせた都の研究書もある)。
これがゾルゲが後に赴任した日本(一九九三年九月)で尾崎を中心とするスパイ組織を構築する始まりだった。
スメドレーは、暫く暫くするとフィリピンに向かった。 米国のフィリピン政策は米帝国主義の典型だと考える彼女は、「フィリピンが文明化され次第独立を認める」としていた米国の公約が蔑ろになっていることに憤っていた。 フィリピン独立早期容認の米国世論を刺激するため、フィリピン民族派に接触し、ルポタージュを書いた。
民族派(実際はフィリピン共産党員)の取材を終えて上海に戻ったのは一九三一年二月のことであった。
人生最高の日々のパートナーであるゾルゲとの別れは唐突に訪れた。 共産主義者として逮捕されたスイス人夫婦の残した子供の処理で、揉めたこの年六月、共産主義者のスイス人夫婦(Paul & Gertrude Ruegg)が上海租界地で英仏警察に逮捕された。不法パスポート所持容疑だった。 二人は中国官憲に引き渡された。
二人には幼い息子がいた。 スメドレーは、友人のルース(Ruth Kuczynski ドイツ共産党員)に世話を頼み込んだ。 ゾルゲは、その子を預かれば逮捕された夫婦との関係を疑われるとルースに預かりを拒否するように諭した。
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