ロンドン家によるアジア・アフリカへの帝国主義的浸透
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ナサニエル・ロスチャイルド Nathaniel Rothschild(1812年ー1870年)
1879年、ライオネルの跡を継いで長男ナサニエル(ロンドン家三代目当主、初代男爵:1885年にビクトリア女王によりロスチャイルド男爵位を)がN・M・ロスチャイルド&サンズの頭取となりました。
ロンドン家は王室と張り合うためもあり、大邸宅をつくりました。 ロンドンの一等地ピカデリーにはナサニエルの邸宅があり、その弟のアルフレッドの邸宅もシーモア・プレイスと近くにありました。
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アルフレッド・ド・ロスチャイルド Alfred Charles Freiherr de Rothschild(1842年ー1918年)
いとこのハンナの夫ローズベリー卿(首相・自由党)の邸宅も近くのバークレイズ・スクエアにありました。
ナサニエルの末弟レオポルドの子供たち、ライオネル、エヴェリン、アンソニーはすぐそばのハミルトン・プレイスの邸宅で育ちました。
ピカデリー通りなど一帯にロスチャイルド一族がいくつも邸宅を構えていて「ロスチャイルド通り」とも呼ばれました。
ロンドン以外では、郊外のガナズベリやバッキンガムシャーのアスコットがロスチャイルド家における拠点でした。
バッキンガムシャーはロスチャイルド州と称されることもありました。ロンドン家の諸邸宅のほかに、ライオネルの娘である妻をお産で失ってイギリス定住を決意したウィーン家フェルディナンドの邸宅もあります。
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フェルディナンドと愛妻エヴェリーナ
フェルディナンド・ド・ロスチャイルド Ferdinand de Rothschild(1839年ー1898年)
この邸宅は、ワデスドン・マナー(館)と呼ばれ、敷地面積1080ヘクタール(327万坪、皇居の9倍強)、220部屋を擁し、威容を誇っています。
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ロスチャイルド財閥ー12 ワデスドンマナー
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/85e7f5f8045775dd842672d531813728
1957年頃にナショナル・トラスト(イギリス文化財保護財団)に寄託されつつ、今も自由に供されています。 お城のような大邸宅は、それぞれ少なくとも数十人の使用人をだ変えていました。
皇太子をはじめとする王室、イギリス政界の名士、各国の王や元首をはじめとする来客が訪れました。 言うまでもなく、ビクトリア女王もよく訪れていたと言います。皇太子とナサニエル兄弟はケンブリッジ時代からの友人でした。
ナサニエルとその弟アルフレッドは、ヨーロッパのロスチャイルド家の全体利益よりもロンドン家によるアジア・アフリカへの帝国主義的浸透に関心を寄せ、イギリス政府の帝国主義政策への政治的関りを強めました。
その結果、ロンドン家からの資本輸出は極めて高水準となりました。 ナサニエルは自らを称して、「ニューコート用(金融家)」とウェストミンスター用(政治家)の二つの帽子をかぶり分けている」と言っていました。
ロンドン家とパリ家の関係は、英仏間の植民地をめぐる紛争の煽りで、特に緊張が走る場面も出てくるようになりました。 アルフレッド・ロスチャイルドは、N・M・ロスチャイルド&サンズの共同経営者であると共に、イングランド銀行の理事を1869年、26歳のときから20年余務めます。
彼は生涯独身でしたが、アルミナという隠し子がいたと言われています。 後に古代エジプトのファラオ・ツタンカーメンの王墓発掘の資金提供者として知られるカーナボン卿が、その夫となりました。
彼は、生前そして遺言で莫大な資産をアルミナやカーナボン卿に贈っています。 加えて、アルフレッドはロンドン駐在オーストリア・ハンガリー帝国総領事でした。
ロスチャイルド財閥-9 ウィーン体制
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/bdb88089d7be05f04ad603f308e78bfd
この職は、ロンドン家三代にわたって受け継がれてきました。 ネイサンからライオネルに、ライオネルの下院銀選出で弟のアンソニーに、アンソニーに息子がなかったので、甥のアルフレッドに受け継がれたのでした。
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哲学・宗教・思想 ここまでの投稿記事一覧
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/7da98797504886d8b9eaa2e5936655e6
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ロスチャイルド財閥-163 ロスチャイルド財閥について今まで投稿してきた記事一覧
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/fedeabe97fbe342e880f7195d00dabec
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世界の財閥 ここまでの投稿記事リスト
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/14d30c37bfae00d834c78d49da070029
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https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/6958fc72746302160416dd6dad039f68
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https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/0b4c5b8ba383a38e0af1df7b1a477ea3
Black Rock ここまでの投稿記事リスト
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/93ef8de49c1ff9039ce7446f1f3fb0e8
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ナサニエル・ロスチャイルド Nathaniel Rothschild(1812年ー1870年)
1879年、ライオネルの跡を継いで長男ナサニエル(ロンドン家三代目当主、初代男爵:1885年にビクトリア女王によりロスチャイルド男爵位を)がN・M・ロスチャイルド&サンズの頭取となりました。
ロンドン家は王室と張り合うためもあり、大邸宅をつくりました。 ロンドンの一等地ピカデリーにはナサニエルの邸宅があり、その弟のアルフレッドの邸宅もシーモア・プレイスと近くにありました。
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アルフレッド・ド・ロスチャイルド Alfred Charles Freiherr de Rothschild(1842年ー1918年)
いとこのハンナの夫ローズベリー卿(首相・自由党)の邸宅も近くのバークレイズ・スクエアにありました。
ナサニエルの末弟レオポルドの子供たち、ライオネル、エヴェリン、アンソニーはすぐそばのハミルトン・プレイスの邸宅で育ちました。
ピカデリー通りなど一帯にロスチャイルド一族がいくつも邸宅を構えていて「ロスチャイルド通り」とも呼ばれました。
ロンドン以外では、郊外のガナズベリやバッキンガムシャーのアスコットがロスチャイルド家における拠点でした。
バッキンガムシャーはロスチャイルド州と称されることもありました。ロンドン家の諸邸宅のほかに、ライオネルの娘である妻をお産で失ってイギリス定住を決意したウィーン家フェルディナンドの邸宅もあります。
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フェルディナンドと愛妻エヴェリーナ
フェルディナンド・ド・ロスチャイルド Ferdinand de Rothschild(1839年ー1898年)
この邸宅は、ワデスドン・マナー(館)と呼ばれ、敷地面積1080ヘクタール(327万坪、皇居の9倍強)、220部屋を擁し、威容を誇っています。
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ロスチャイルド財閥ー12 ワデスドンマナー
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/85e7f5f8045775dd842672d531813728
1957年頃にナショナル・トラスト(イギリス文化財保護財団)に寄託されつつ、今も自由に供されています。 お城のような大邸宅は、それぞれ少なくとも数十人の使用人をだ変えていました。
皇太子をはじめとする王室、イギリス政界の名士、各国の王や元首をはじめとする来客が訪れました。 言うまでもなく、ビクトリア女王もよく訪れていたと言います。皇太子とナサニエル兄弟はケンブリッジ時代からの友人でした。
ナサニエルとその弟アルフレッドは、ヨーロッパのロスチャイルド家の全体利益よりもロンドン家によるアジア・アフリカへの帝国主義的浸透に関心を寄せ、イギリス政府の帝国主義政策への政治的関りを強めました。
その結果、ロンドン家からの資本輸出は極めて高水準となりました。 ナサニエルは自らを称して、「ニューコート用(金融家)」とウェストミンスター用(政治家)の二つの帽子をかぶり分けている」と言っていました。
ロンドン家とパリ家の関係は、英仏間の植民地をめぐる紛争の煽りで、特に緊張が走る場面も出てくるようになりました。 アルフレッド・ロスチャイルドは、N・M・ロスチャイルド&サンズの共同経営者であると共に、イングランド銀行の理事を1869年、26歳のときから20年余務めます。
彼は生涯独身でしたが、アルミナという隠し子がいたと言われています。 後に古代エジプトのファラオ・ツタンカーメンの王墓発掘の資金提供者として知られるカーナボン卿が、その夫となりました。
彼は、生前そして遺言で莫大な資産をアルミナやカーナボン卿に贈っています。 加えて、アルフレッドはロンドン駐在オーストリア・ハンガリー帝国総領事でした。
ロスチャイルド財閥-9 ウィーン体制
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この職は、ロンドン家三代にわたって受け継がれてきました。 ネイサンからライオネルに、ライオネルの下院銀選出で弟のアンソニーに、アンソニーに息子がなかったので、甥のアルフレッドに受け継がれたのでした。
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