遺跡を発掘して歴史を解き明かす考古学で墓は有力な手がかりだ。近年、埋葬人骨に含まれる微量のDNAを解析して埋葬された人々の血縁関係を突き止めることが可能になり、注目を集める。
収められた土器や装身具から分かるその人の社会的地位などと合わせて分析すると、権力の継承や人の移動が見えてくる。
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岡山県津山市に三成四号墳という前方後方墳がある。前方部の石棺には30〜40代の男性と20〜30代の女性が埋葬され、古墳時代の小規模集団の首長の墓とみられる。
このほど、国立科学博物館の神澤秀明研究主幹らが2体の人骨の奥歯から細胞の核に含まれるDNAを抽出し、配列を詳しく調べると、この2人は夫婦ではなく親子だとわかった。
後方部の石棺には高齢女性と女児が埋葬されていたが、女児は前方部の石棺の男性の子だった。先の女性とは姉妹ということになるが、2人は母が異なっていた。
つまりこの古墳には父と腹違いの娘2人が埋葬されており、母たちは埋葬されていないということだ。
古墳時代の埋葬人骨の関係を「ここまで詳しく特定できたのは初めて」と、古墳時代の社会構造を研究している岡山大学の清家章教授は話す。
古墳時代や平安時代には、同じ墓に入るのは基本的に血族のみだった。結婚後も実家との結びつきが強く、夫婦も死後はそれぞれ実家の墓に入った。
また当時は多産多死社会で、死別や再婚も多かったようだ。DNAの解析結果はこうした見方と符合する。
庶民の墓についてはどうだろうか。和歌山県の田辺湾岸にある磯間岩陰遺跡は古墳時代の漁民の墓地で、8つの石棺に12体の人骨が埋葬されている。山梨大学の安達登教授らがこれらのミトコンドリアDNAを解析したところ、ほぼ全ての石棺に母方の血縁者同士が埋葬されていたが、一人だけ誰とも母方の血縁関係がない中年男性がいた。
この男性の石棺には15歳の少年が先に葬られていたが、彼はほかの石棺の女性たちと母方の血縁関係にあった。男性が女性の誰かの夫で、少年が二人の間の息子だと考えるとつじつまが合う。
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なぜこの男性は実家の墓に戻らず、配偶者の実家の墓に葬られたのだろう。ヒントは彼らの埋葬方法にある。
ほかの遺骨がまっすぐ足を伸ばしているのに対し、2人は膝を曲げ足を開いた形で置かれている。石室の底には貝殻とサンゴが敷かれ、海岸によくある穴だらけの磯石が置かれていた。いずれもこの地域の墓にはみられない特徴だ。
実はこれらの特徴を備えた墓が、遠く神奈川県の三浦半島にある。田辺湾岸で作られた鹿の角の釣り針が三浦半島に伝わっており、当時から人の交流があったことがわかっている。
男性はおそらく三浦半島から田辺湾岸にやってきて、ここで結婚して息子をもうけたが先立たれ、出身地の方法で埋葬したのだろう。自身が死んだときは実家は遠すぎて戻せず、同じ墓に埋葬されたのではないか。そんな仮説が浮かび上がり、調査が続いている。
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古墳時代より前の弥生時代の人骨も解析されている。
鳥取県東部にある青谷上寺地遺跡からは100体分以上の人骨が出土しており、このうち13体について神澤研究主幹らが核のゲノムを解析した。
その結果、現代の本州に住む日本人よりも縄文人寄りの人から、逆に渡来人寄りの人まで幅広く含まれていることがわかった。
弥生時代の青谷上寺地には、現代の東京よりもっと多様な人々が暮らしていたらしい。「おそらく広い地域におよぶ交流が頻繁にあったのだろう」(神澤氏)
日経記事 2024.02.14より引用