アメリカの軍需産業を動かすエネルギーは、巨大な国防予算にある。 商務省に残される軍事支出の記録は、アメリカが独立宣言を発した一七七六年の建国の年から一五年後、一七九一年からはじまる。
その年に、当時の首府フィラデルフィアに合衆国銀行が設立され、国家としての予算銀行の営業がスタートした。
アメリカの国立銀行を設立した政治家たちの性格は、現代アメリカの軍事的性格を物語る。 建国史の裏側に、アメリカ経済・政治の中枢人脈と軍部の結びつきが今日まで続く本質的な要因が潜んでいる。
アメリカの歴代資産家のなかで、J・P・モルガンやデュポンをしのぐ大金を稼ぎ、歴代富豪第八位に名を残しながら、ほとんど知られていないスティーヴン・ジラードという男がいる。
ジラードは一七五〇年にフランスのボルドー近くに生まれ、八歳で右目を失明した。 彼は船長の息子だったが、母が幼い頃に亡くなり、継母が虐めるので耐えられず、父の後を継いで船乗りになろうと決意した。
ジラードはやがて船長になると、現在のカリブ海域であるアメリカ東部海岸の西インド貿易に関わり、一七七四年にニューヨークに着いた。 時まさにアメリカがイギリスに楯突いて独立革命に入ろうとしている時代だった。
前年に、アメリカ人がイギリス東インド会社の紅茶をボストン湾に投げ込む『ボストン茶会事件』が起こっていた。
ジラードが観察したアメリカは、次のようなものであった。
彼がアメリカ大陸に上陸した翌年、一七七五年四月一九日にアメリカ独立戦争の火蓋が切られ、六月一五日にはジョージワシントンが植民地総司令官に任命され、本格的な戦争へと突入していった。
その頃、新国家の建国を唱える民衆の指導者であったベンジャミン・フランクリンに刺激を受けたイギリス人トマス・ペインが、アメリカに渡り『コモンセンス(常識)』というパンフレットを出版した。
、雄弁な言葉で独立宣言の必要性と新しい共和国の建国を提言すると、それまで静観していた人たちのあいだにも、独立の気運が全土に燃え広がった。
さらに、イギリスと敵対していたフランスのルイ一六世が、アメリカの植民地軍への軍需品の援助を命じて、イギリスに対する戦意はいやがうえにも高揚していった。
一七七六年六月七日には、のちに南北戦争で南軍を率いるリー将軍の一族リチャード・ヘンリー・リーが独立を提唱し、第二代大統領となるジョン・アダムズ、第三代大統領となるトマス・ジェファーソンら五人の独立宣言起草委員が任命され、ついに七月四日にデラウェア河畔のペンシルヴェニア南東郡フィラデルフィアにて、独立宣言が出された。
アメリカが建国されたのである。
翌年には、フランスのラファイエット侯爵が義勇軍を組織して、植民地アメリカ軍の応援にかけつけ、イギリス軍は大敗を喫したが、戦闘は以後も続いた。 一七七八年にはフランスが北米の独立を承認すると、イギリスとフランスの海軍が新たな戦闘に突入していった。
この年、フランスの大蔵大臣ジャック・ネッケルが、追放されていた経済学者ピエール=サミュエル・デュポンを復帰させて要職に就け、アメリカの死の商人デュポンを産む運命を導いた。
ヨーロッパでは、一七七九年にスペインがイギリスに宣戦布告し、一七八〇年にはハプスブルグ帝国オーストリアのマリア=テレジアがこの世を去るという混乱の時代であった。
アメリカの、独立を確実なものにしなければならない新大陸の人たちは、ヨーロッパの力だけに頼ることはできず、軍事財政が困難な状況を打破するため、フィラデルフィアの富裕な九〇人の商人達が、ペンシルヴェニア銀行を設立した。
これは、すでに発足していた議会が、出資者の金を保証する『軍事予算用の銀行』であった。
かくして一七八一年一七八一年一〇月一九日、チャールズ・コーンウォリス率いるイギリス軍が、ヨークタウンでワシントン将軍のアメリカ・府フランス連合軍に敗れ、独立戦争が終結した。 今度は名実ともに、独立したアメリカが誕生したのである。
続く一二月三一日には、のちに初代財務長官となるアレクサンダー・ハミルトンが、フィラデルフィア随一の商人ロバート・モリスと手を組み、アメリカ国家最初の銀行として、北米銀行(Bank of North America)の設立を、議会で承認させることに成功した。
モリスは,ただの商人ではなかった。 独立宣言署名者の一人でアメリカ政府の借金財政を解消するために奔走した実質的な最高財務官であった。
その一方で、ハミルトンを動かし、イギリスとアメリカの軍事物資の貿易で莫大な利益を上げていた。 ワシントン将軍の妹ベティの結婚相手も、ヴァージニア州の大地主で、戦場に武器を送り込んだ兵器商フィールディング・ルイスであった。 戦いながらしこたま儲ける。 それが、彼ら全員の姿であった。
こうして誕生した北米銀行の初代頭取には、トマス・ウィリングという人物が就任した。
後に、タイタニック号で死亡する全米一の富豪ジョン・ジェイコブ・アスター四世の妻は、彼の直系子孫だった。
ウィリングの娘アンは、アメリカでの『植民地エージェント』として財を成したウィリアム・ビンガムと結婚。 さらにビンガムの娘二人が、当時世界一のロンドン商人ベアリング兄弟と結婚するほどの豪商ファミリーであった。
情熱家のフランス人デュポンは、一七三八年にアメリカ合衆国との独立条約をイギリスに認めさせようと奔走し投獄されるが、忍耐強く秘密交渉を続け、最後にはイギリスにアメリカ独立を承認させ、アメリカの建国にとって欠かせない歴史上の重要人物となった。
かくして一七八九年(フランス革命が勃発した年、ジョージ・ワシントンが初代アメリカ大統領に就任した年、アメリカの国際政治の名門ジョージタウン大学が設立された年)四月三〇日、フリーメーソンのジョージワシントンがニューヨーク市で初代大統領二就任し、新国家は順調に発展するかに見えた。
しかし、七月一四日にアメリカが頼みにする同盟国のフランスで、バスティーユの要塞が襲撃されるフランス革命が勃発し、歴史は大きく変転し始めた。
安閑としていられないアメリカは、翌一七九〇年にペンスルヴェニア州フラでルフィアをアメリカの首府二定めると、これまでの北米銀行ではなく、公式の予算を扱う国立銀行を設立することを議会で決め、一七九一年に『営業許可二〇年』という条件付きで『合衆国銀行(The Bank of the United States )』、通称『ファーストバンク』が誕生した。
初代頭取には、北米銀行と同じく、またしても『豪商ウィリング』が就任した。 したがってこの銀行は、ロバート・モリス一派の『モリス商会』が軍事物資を政府に収めるための.露骨な利権金融シンジケートの性格を持っていた。
ここまでの十七年間を静かに眺めていたのが、フランスからやってきた『船乗りジラード』だったのである。
彼はそれまでに雑貨と酒の貿易商人として大いなる成功をおさめ、すでに押しも押されぬ著名人となっていた。 そのフィラデルフィアに、二年後に黄熱病が発生すると、六人に一人が死亡するという恐怖のパニックに町中が襲われた。
ところが、ジラードは富裕の身ながら、黙々と荷車を押して病人を病院に運び続け、多くの人々に感謝され、なお一層の財を成した。
第二代大統領に就任したジョン・アダムズは、一七九七年十一月一日に現在のワシントンDCに移ってホワイトハウスでしつむを開始し、一八〇〇年に首府を正式にフィラデルフィアからワシントンDCに移したが、フランス革命軍とアメリカが準戦争状態にあったため、デラウェア州にデュポン社の設立計画が始まった。
不思議な関係ながら、同社にフランス政府が出資して、デュポン一族が三分の一の株を保有し、一八〇二年には、ピエール・デュポンと共に渡米した息子、エリューテール=イレネー・デュポンが火薬の製造にとりかかったのである。
デュポン工場が建設され、火薬の製造が始まると、最大の顧客はイギリスに自由貿易を妨害されて戦闘準備を進めていたアメリカ政府と、毛皮貿易のためインディアン討伐に火薬を求めたアメリカ毛皮会社のアスター家であった。
一八一〇年には、アメリカ海域へのフランス・イギリスの軍艦立ち入り禁止法が成立し、一触即発の状態に立ち戻ったが、折り悪く一八一一年に合衆国銀行の営業が切れ多翌年、アメリカはイギリスに宣戦を布告しなければならなくなった。
そのため、資金不足のアメリカの軍隊は苦戦を強いられ,アメリカ公債が暴落し、議会が合衆国銀行の営業許可を更新できずにいた時、商人ジラードが、この宙に浮いた銀行を丸ごと買い取ってしまったのである。
国立銀行は『ジラード銀行』と改名され、たちまち個人銀行に生まれ変わってしまった。 そしてアメリカ政府が軍費で破産しかかると、全く人気のない戦時公債一六〇〇万ドルの半分をジラードが購入して財務省を救うことになった。
しかし、それでも戦時公債は五〇〇ドルが二万ドルまで暴落し、ジラードはさらに全部を買い取った。
要するに国家の軍事予算を一人の富豪商人が買い取ったのである。 戦況は悪化し、イギリス軍が首府ワシントンを占領してホワイトハウスを焼き討ちし、後年に黒船で浦賀で来港したマシュー・刈るブレイス・ペリー提督の兄、オリバー・ハザード・ペリー提督がこの戦争で活躍し、ついにはエリー湖の戦闘で勝利をおさめてアメリカ海軍の英雄となった。
オリバーの直系の曾孫アリスの夫ジョセフ・グリューは後年駐日大使となり、大日本帝国の真珠湾攻撃計画を探り当ててアメリカ本国に警告し、近衛首相と密談した人物である。
またグリュー大使の近親者スチュアート・クレーマー三世が、軍需産業ロッキードの重役だった。
この第二次イギリス・アメリカ戦争で、アメリカは最後にはイギリスとの講和条約二調印して。ようやく終戦にこぎつけた。
アメリカにとっては金がなければ戦争に勝てないということを学ぶ苦い経験であった。終戦後、新たに『第二合衆国銀行(Second Bank of the United States)』が設立されると、商人ジラードがその資本のかなりを出資し、ピエールの長男ヴィクトル=マリー=デュポンと次男エリューテール=イレネー・デュポンが重役に就任した。
かくしてアメリカという国家は、建国からずっと今日まで、にへいきしょうと結びつく財閥によって資本が受け継がれ、その呪縛から逃れられなくなったのである。
かの大物ジラードの遺産は、どのように継承されたのか。
一八三一年に大富豪ジラードが八一歳で死去したあと、遺産は全米一の七〇〇~七五〇万ドルと推定され、親族がどっと彼の屋敷におしかけて、高級ワインを奪い合いながら遺産の分け前を期待した。
金に貪欲なジラードと思われていた。 が、そこに驚くべき事が起こった。 遺産相続は、っすでに弁護士と詳細に打ち合わせてあり、遺言状には、家族あてには、ほんのわずかな金額が記載されていただけだった。
「存命中の弟ひとりと、姪十一人に五〇〇〇ドルから二万ドル、家族持ちの姪ひとりにだけ六万ドル」とあり、
「残りはすべて孤児、病院、障害者施設、学校、貧困者を助ける燃料、海難家族救済協会、運河建設などに使われる」
と明記されていた。 そのため、国政を救った偉大なスティーヴン・ジラードの名は、アメリカの歴史上ほとんど記載されていない。
後年まで記憶される富豪たちは、その逆の道をたどった。
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