仏教の教えとヨガ哲学には似ている部分がたくさんあります。
以下、似ている部分を本から抜粋しました。
(p30)「四苦八苦(しくはっく)」という言葉がありますね。これは仏教に由来する言葉です。
四つの苦とは、生まれてくる苦しみ、老いる苦しみ、病にかかる苦しみ、死ぬ苦しみという、すべての人に避けられない苦です。
生苦…生まれることにともなう苦
老苦…老いにともなう苦
病苦…病にともなう苦
死苦…死にともなう苦
これに四つの苦を加えたものを「四苦八苦」といいます。
愛別離苦(あいべつりく)…愛する人と別れる苦しみ
怨憎会苦(おんぞうえく)…嫌な相手と向き合う苦しみ
求不得苦(ぐふとくく)…求めても手に入らない苦しみ
五蘊盛苦(ごうんじょうく)…五感や心のはたらきが生む煩悩を制御できない苦しみ
たくさんありますね。実にこの世は、思うにまかせない辛いこと、苦しいことだらけです。この考え方を「一切皆苦」(すべては苦である)といいます。
ブッダはこうした苦しみの原因を明らかにしました。それが煩悩です。
仏教では人間のもつ根本的な煩悩を三毒(貪り、怒り、愚か)としています。
(p32)俗に百八の煩悩といわれるように、私たちは終始、煩悩に心を乱されながら生きています。それが人間というものですし、喜怒哀楽があってこそ人生だというのは間違いありません。しかし、煩悩があるかぎり、人生は苦しみに満ちているのです。
(p32)ブッダは諸行無常と諸法無我を理解し、煩悩をコントロールして心を穏やかに保つことで、苦しみを減らすことができると、悟りに至るプロセスを順を追って明らかにしました。
苦しみを完全に抜け出した状態を「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」と呼びます。悟りの境地と同じ意味です。涅槃とは「ニルヴァーナ」という古代インドの言葉、サンスクリット語からきていて、ろうそくなどを吹き消した状態という意味です。
つまり、煩悩の炎を吹き消せば、私たちは心の安らぎを得ることができ、涅槃、すなわち悟りに至ることができるのです。ブッダは実際に、涅槃の境地に到達しました。いかに煩悩の炎を吹き消すか。簡単なことではありません。ブッダ自身、涅槃の境地に至り、悟りを開いた後も、気をつけていました。
たとえば、ブッダは一カ所に長くとどまることなく、一生、旅を続けました。決まった居場所をもうけてしまうと、その場所や人間関係にとらわれて、離れがたくなったりします。持ち物が増えれば、それを守りたくなったり、別のものがほしくなったりしがちです。そうした欲が頭をもたげるのを防ぐため、信者から寄進されたお寺にも長居せず、布教の旅を続けたのです。
(p33)ブッダは、人は死んでも何か別の生物に生まれ変わるという輪廻転生の考え方をベースに、涅槃寂静を目指す教えを説きました。生老病死の苦しみがなくなるということは、もう輪廻してこの世に戻ってこないということです。苦しみの輪廻の輪から抜け出すことによって、人は涅槃に至ることができます。
仏教の目指す理想の境地、涅槃寂静は、諸行無常と諸法無我を理解し、煩悩のない穏やかな心を手に入れ、苦しみに満ちた輪廻の世界に生まれることのない状態なのです。ブッダはもう生まれ変わって戻ってくることはありません。「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」。
この3つを、他の宗教にはない仏教の象徴的な教えという意味で三法印(さんぼういん)と呼びます。これに「一切皆苦」を加えて四法印(しほういん)と呼ぶこともあります。
(p35)そもそも生きることは苦である。人生は思い通りにならなくて当たり前なんだ。ブッダの教えは、ここからスタートしています。驚くべきマイナス思考ですね。
(p35)たとえばイスラム教の聖典『コーラン』には、神様から授かった命を、すばらしい人生を、思う存分楽しめと書いてあります。
(p35)一方、仏教では、この世は四苦八苦に満ちているのだから、二度とこの世に生まれてこない状態が理想だと明言しています。まるで人生をすべて否定している、冷たい姿勢にも思えてしまいます。
しかし、こうしたブッダの教えが魅力的だったからこそ、仏教は多くの人々に受け入れられ、広まっていったのでしょう。その背景には、伝統的なインド社会の成り立ちが深く関わっています。
(P42)大乗仏教がもっとも大切にするのは利他です。利他とは、自分のことはさておいて、他の人が、あるいは他の生き物が幸せになれるように行動する姿勢です。この利他という行ないを積み重ねることで、人は悟りに徐々に近づけると考えます。なぜなら、ブッダもそうしたからです。
(P43)大乗仏教ではこう考えます。ブッダとて生まれて35年間で悟ったわけではない。数限りない前世の間に利他の行ないを積み重ねてきた結果、悟りに至ることができたのだ。だから、私たちも日々一つひとつ利他の種をまいていけば、いつか来世において機が熟したときに、花開くときが来るのだと。
(P44)タイやミャンマー、スリランカでは、今でも上座部仏教が主流です。
*上座部仏教:戒律を厳格に守ることを重んじる保守派から生まれた。出家して修行を積むことで悟りを開くことができると説く。テーラワーダ仏教、南伝仏教、小乗仏教とも呼ばれる。スリランカ、タイ、カンボジア、ラオス、ミャンマーなどに伝播。
*大乗仏教:利他の行いによってすべての人を救うと説く。お釈迦様の教えを広く大衆に広めることを目指す。北伝仏教とも呼ばれる。日本、中国、朝鮮半島、チベット、モンゴルなどに伝播。
(P49)一方、仏教では、玄装は自分でお経を取りにいかねばなりませんでした。日本の最澄や空海も、遣唐使船で中国に仏教を学びに赴きました。向こうから日本に来てくれたのは、奈良時代、日本から請われて来日した鑑真ぐらいです。広めようという意思がないのに広く浸透していったのですから、よほどの魅力が備わっていたのでしょう。
(P49)1神教ではない仏教には、多彩な価値観を認める懐の広さが備わっています。この仏教のもつ大らかさこそ、八百万(やおよろず)の神とともに生きてきた日本人にとって、仏教が親しみやすい理由のひとつではないでしょうか?
以下、似ている部分を本から抜粋しました。
(p30)「四苦八苦(しくはっく)」という言葉がありますね。これは仏教に由来する言葉です。
四つの苦とは、生まれてくる苦しみ、老いる苦しみ、病にかかる苦しみ、死ぬ苦しみという、すべての人に避けられない苦です。
生苦…生まれることにともなう苦
老苦…老いにともなう苦
病苦…病にともなう苦
死苦…死にともなう苦
これに四つの苦を加えたものを「四苦八苦」といいます。
愛別離苦(あいべつりく)…愛する人と別れる苦しみ
怨憎会苦(おんぞうえく)…嫌な相手と向き合う苦しみ
求不得苦(ぐふとくく)…求めても手に入らない苦しみ
五蘊盛苦(ごうんじょうく)…五感や心のはたらきが生む煩悩を制御できない苦しみ
たくさんありますね。実にこの世は、思うにまかせない辛いこと、苦しいことだらけです。この考え方を「一切皆苦」(すべては苦である)といいます。
ブッダはこうした苦しみの原因を明らかにしました。それが煩悩です。
仏教では人間のもつ根本的な煩悩を三毒(貪り、怒り、愚か)としています。
(p32)俗に百八の煩悩といわれるように、私たちは終始、煩悩に心を乱されながら生きています。それが人間というものですし、喜怒哀楽があってこそ人生だというのは間違いありません。しかし、煩悩があるかぎり、人生は苦しみに満ちているのです。
(p32)ブッダは諸行無常と諸法無我を理解し、煩悩をコントロールして心を穏やかに保つことで、苦しみを減らすことができると、悟りに至るプロセスを順を追って明らかにしました。
苦しみを完全に抜け出した状態を「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」と呼びます。悟りの境地と同じ意味です。涅槃とは「ニルヴァーナ」という古代インドの言葉、サンスクリット語からきていて、ろうそくなどを吹き消した状態という意味です。
つまり、煩悩の炎を吹き消せば、私たちは心の安らぎを得ることができ、涅槃、すなわち悟りに至ることができるのです。ブッダは実際に、涅槃の境地に到達しました。いかに煩悩の炎を吹き消すか。簡単なことではありません。ブッダ自身、涅槃の境地に至り、悟りを開いた後も、気をつけていました。
たとえば、ブッダは一カ所に長くとどまることなく、一生、旅を続けました。決まった居場所をもうけてしまうと、その場所や人間関係にとらわれて、離れがたくなったりします。持ち物が増えれば、それを守りたくなったり、別のものがほしくなったりしがちです。そうした欲が頭をもたげるのを防ぐため、信者から寄進されたお寺にも長居せず、布教の旅を続けたのです。
(p33)ブッダは、人は死んでも何か別の生物に生まれ変わるという輪廻転生の考え方をベースに、涅槃寂静を目指す教えを説きました。生老病死の苦しみがなくなるということは、もう輪廻してこの世に戻ってこないということです。苦しみの輪廻の輪から抜け出すことによって、人は涅槃に至ることができます。
仏教の目指す理想の境地、涅槃寂静は、諸行無常と諸法無我を理解し、煩悩のない穏やかな心を手に入れ、苦しみに満ちた輪廻の世界に生まれることのない状態なのです。ブッダはもう生まれ変わって戻ってくることはありません。「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」。
この3つを、他の宗教にはない仏教の象徴的な教えという意味で三法印(さんぼういん)と呼びます。これに「一切皆苦」を加えて四法印(しほういん)と呼ぶこともあります。
(p35)そもそも生きることは苦である。人生は思い通りにならなくて当たり前なんだ。ブッダの教えは、ここからスタートしています。驚くべきマイナス思考ですね。
(p35)たとえばイスラム教の聖典『コーラン』には、神様から授かった命を、すばらしい人生を、思う存分楽しめと書いてあります。
(p35)一方、仏教では、この世は四苦八苦に満ちているのだから、二度とこの世に生まれてこない状態が理想だと明言しています。まるで人生をすべて否定している、冷たい姿勢にも思えてしまいます。
しかし、こうしたブッダの教えが魅力的だったからこそ、仏教は多くの人々に受け入れられ、広まっていったのでしょう。その背景には、伝統的なインド社会の成り立ちが深く関わっています。
(P42)大乗仏教がもっとも大切にするのは利他です。利他とは、自分のことはさておいて、他の人が、あるいは他の生き物が幸せになれるように行動する姿勢です。この利他という行ないを積み重ねることで、人は悟りに徐々に近づけると考えます。なぜなら、ブッダもそうしたからです。
(P43)大乗仏教ではこう考えます。ブッダとて生まれて35年間で悟ったわけではない。数限りない前世の間に利他の行ないを積み重ねてきた結果、悟りに至ることができたのだ。だから、私たちも日々一つひとつ利他の種をまいていけば、いつか来世において機が熟したときに、花開くときが来るのだと。
(P44)タイやミャンマー、スリランカでは、今でも上座部仏教が主流です。
*上座部仏教:戒律を厳格に守ることを重んじる保守派から生まれた。出家して修行を積むことで悟りを開くことができると説く。テーラワーダ仏教、南伝仏教、小乗仏教とも呼ばれる。スリランカ、タイ、カンボジア、ラオス、ミャンマーなどに伝播。
*大乗仏教:利他の行いによってすべての人を救うと説く。お釈迦様の教えを広く大衆に広めることを目指す。北伝仏教とも呼ばれる。日本、中国、朝鮮半島、チベット、モンゴルなどに伝播。
(P49)一方、仏教では、玄装は自分でお経を取りにいかねばなりませんでした。日本の最澄や空海も、遣唐使船で中国に仏教を学びに赴きました。向こうから日本に来てくれたのは、奈良時代、日本から請われて来日した鑑真ぐらいです。広めようという意思がないのに広く浸透していったのですから、よほどの魅力が備わっていたのでしょう。
(P49)1神教ではない仏教には、多彩な価値観を認める懐の広さが備わっています。この仏教のもつ大らかさこそ、八百万(やおよろず)の神とともに生きてきた日本人にとって、仏教が親しみやすい理由のひとつではないでしょうか?