今回は、2回に分けて富士吉田市と河口湖~山中湖その周辺に伝わる徐福伝説の史跡探訪をして参りましたのでそのご紹介です。
実は、今から20年ほど前に一度探訪をした事があったのですが当時はデジカメの性能が悪くイマイチの写真ばかりでしたので、リベンジを兼ねての再訪でした。
まずは、富士吉田市とその周辺に残る徐福伝承のご紹介です。
紀元前219年 秦の始皇帝の東方蓬莱の国(日本)の不死(富士)の霊山に不老不死の霊薬を探するという名を受けた徐福は、大勢の部下を連れ東海の浜(駿河湾)から峠を越えて、阿祖谷(現在の富士吉田市大明見あたり)から大室の原に入ったそうです。しかし、そんな霊薬などどこを探してもあるはずもなく、故郷に帰れば、始皇帝に首をはねられるというので、山中湖畔“長池村(かつて長命村とも)現在の長池地区”に、定住し子孫もこの地に住み着いたという言い伝えがあります。
その後、徐福は亡くなり三羽の鶴となって舞いあがりうち一羽が死んで福源寺(富士吉田市下吉田)に落ちそれを後世葬った塚が「鶴塚」で、徐福の化身の鶴が眠っている場所とされています。
また、鶴に化した徐福は、富士山麓の村民を守ったので、土民達は後を慕い、地名を都留郡(つるごおり)と名付けたそうです。
富士吉田市に残る徐福伝承は、ざっと以上なのですがやはり『富士宮下文書』(富士古文献とも)との関りを無視するわけにはいきません。
「富士宮下文書」は、徐福とその子孫が記述したものと伝わります。
出自は、寛文八年(1668)に、富士吉田市大明見に鎮座する小室浅間神社の社司である宮下家に伝わる「開けずの箱」から出現した文書で、それには徐福の系図や東渡後の生活について詳しく述べられていて、古地図も書かれていました。
宮下文書に掲載されている絵地図(クリックして拡大します)
しかし、元が神代文字よりの写本だった事からアカデミズムでは、偽書とされています。
ですが、このことを裏付ける文献として中国の『義楚六朝』と、言う書物に「徐福一行が蓬莱山(富士山)に行った」と言う記述が見られるそうです。また、有名な司馬遷『史記』「秦始皇本紀」にも、徐福が登場し同様な記述が見られることから真っ向から偽書と決めつけるのは、もう少し調査が必要かと思われます。
【宮下文書抜粋】
「徐福は天竺に行き、仏学を7年学び、秦王に仕え勲功があったので官位の昇進が目覚しかった。徐福の渡海は男女500人で、船は85隻であった。一行は蓬莱山(富士山)を目指し、はじめ紀伊に到着し、3年滞在した。その後船に乗り、再び富士山を目指し、住留家(するが)に上陸した。一行中には農夫・大工・猟師・紙漉き・笠張り・楽人・衣類工女・酒造・塩炊き・鍛冶・鋳物師・石工・医師などがいた。
武内宿弥が徐福の来朝を喜び、門に入って教えを受けた。
徐福の連れてきた子女は7人だったが、日本に来てから3人の男子を得、計10人となった。子供たちは姓を福の一字をとって、長男は福岡、次男は福島、三男は福山、四男は福田と称した」
「徐福は天竺に行き、仏学を7年学び、秦王に仕え勲功があったので官位の昇進が目覚しかった。徐福の渡海は男女500人で、船は85隻であった。一行は蓬莱山(富士山)を目指し、はじめ紀伊に到着し、3年滞在した。その後船に乗り、再び富士山を目指し、住留家(するが)に上陸した。一行中には農夫・大工・猟師・紙漉き・笠張り・楽人・衣類工女・酒造・塩炊き・鍛冶・鋳物師・石工・医師などがいた。
武内宿弥が徐福の来朝を喜び、門に入って教えを受けた。
徐福の連れてきた子女は7人だったが、日本に来てから3人の男子を得、計10人となった。子供たちは姓を福の一字をとって、長男は福岡、次男は福島、三男は福山、四男は福田と称した」
※以上は、以下サイトより一部引用加筆編集し掲載させて頂きました。
・秦の始皇帝の家来が伝えた富士吉田織物(富士吉田織物協同組合)(現在リンク切れ)
・富士徐福渡来伝説(徐福)(現在リンク切れ)
・富士古文献(宮下文書)と徐福(徐福渡来伝承の地の紹介サイトへのリンク集)
まず、初めに訪れたのは、北口本宮冨士浅間神社の駐車場脇にある「徐福碑」です。
徐福碑 中国仏教協会長の趙僕初氏が、徐福を偲び詠んだ詩が書かれています。
徐福碑由来:紀元前210年秦の始皇帝の命により徐福は三千人の童男童女五穀および百工を携えて東海の三神山に不老長生の薬を求めて船出して再び中国に戻ることはなかった。「富士山北口の記」には『徐福は熊野三山を巡回した後、尾張の熱田に至り、それより諸州を廻りついに富士山麓を安住の地と定める』
続いて訪れたのが、かつてあったとされる富士古代王朝の中心地「高天原」へ。
場所は、以前も紹介した藁で造られた三柱鳥居のある「不二阿祖山太神宮」の近くです。
北東本宮小室浅間神社・古宮
古代阿祖山太神宮 古代この地にあったと伝わる富士王朝の中心地です。
泰山府君大神碑 泰山府君とは、中国の泰山に住むという神様。 道教では人の生死をつかさどる神でもあります。
南朝英霊神社
南朝英霊神之碑
長慶天皇碑 長慶天皇は第98代天皇 南朝方だったため暫く在位不明であった影の薄い天皇 しかし、なぜにここに祀られているのでしょうか?謎です。
続いて、北東本宮小室浅間神社へ
北東本宮小室浅間神社
拝殿
他の浅間神社と比較するとこじんまりとした境内ですが、境内全体が掃き清められていて、すがすがしい神社でした。
本殿 祭祀:木花開耶姫命、誉田別命、国狭槌命、泥土煮命、上筒男命、他十三柱
珍しい「泥土煮(ういじに)命」とは、神世七代の第四代の神で、宇比地は泥土、須比智は砂土で、土砂を神格化した神のことだそうです。 大地を鎮める盛り土の神とする説もあります。
興味深かったのは、本殿背後にあった謎の開き戸です。人が入るのには小さすぎます。果たしてここから何を出し入れするのでしょうか?
続いて訪れたのは、ここから北東へ1キロほど行った明見湖(はす池)近くにある「徐福雨乞地蔵祠」へ
徐福雨乞地蔵祠 20年ぶりにまた訪れることが出来ました。
祠の中には、帆船の模型が展示されているのですがこれを見てあれ?と、思ったのが徐福とその周囲にいる側近たちのお人形 何か違う?と思って以前撮影した同じ場所の写真を確認したところ…。
こちらは、まだ綺麗な状態の2001年7月に訪れた時撮影したもの やはり、徐福さんお一人しかいらっしゃいませんでした。
続いて訪れたのは、この近くにある「徐福の祠」徐福の墓とも言われている場所です。周囲の住宅地の一番高い位置(麻呂山と呼ばれているそうです) にある茂った森の中にあります。
ここも以前一度訪れていた場所ではありますが、かなり分かりくい場所にあります。
近くに車を置き、この轍のある坂から登って行くと分かりやすいかと思います。
轍のある坂を登って行くとちょっとした広場となり石段と鳥居が見えて参ります。
太神社 祭祀:天照大神、須佐之男命
徐福の祠(徐福の墓)徐福はBC208年の死んだとされ徐福の子孫とされる「大山守皇子」が、この地に埋葬しここへ徐福の祠を建てたと宮下文書では伝えています。
社殿と並んで祠や野仏などが立ち並んでいます。中央のひと際目立つ祠は、ちょっと変わった形をしています。大陸の方で見られる異国の祠っぽいですね。
邪馬台国 アラハバキの碑もありました。どなたか信奉者が私設で建てたものでしょう。
本日最後に訪れたのは、鶴の化身として舞い降りこの地に眠ると伝わる福源寺(富士吉田市下吉田)の「鶴塚」です。
聖徳山福源寺(浄土真宗本願寺派)本堂
鶴塚(写真クリックで拡大します)
鶴塚碑 言い伝えによると、時は生類憐れみの令の時代、寺の境内に一 羽の鶴の死骸が発見された。鶴捕獲の禁止令もあり、住職は驚き谷村勝山城主に届け出 た。この鶴こそ、2000年前郡内に織物の技をもたらした徐福の化身であるとされ、 鶴塚が建立された。 (こちらより引用)
太子堂
(サムネイルをクリックして拡大)
次回は、河口湖~山名湖畔に残る徐福の史跡探訪part2を紹介させて頂きます。乞うご期待!
参考文献:
- 謎の宮下文書(佐治義彦著)
- 危険な歴史書「古史古伝」/別冊歴読
- 徐福王国相模(前田豊著)
- ほかWEB記事
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