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【神社】太田姫稲荷神社@千代田区神田駿河台

2014-03-13 | 神社・仏閣
湯島天神を散策した後に訪れたのがここの神社でした。
今でこそ、神田駿河台下に建て直したばかりの社殿が鎮座しておりますが元々は、お茶の水駅の神田川沿い 今の聖橋と淡路坂(一口坂(いもあらいさか))角に、鎮座していたそうで昭和6年に総武線の拡張工事に伴い現在の場所へ遷座したそうです。


淡路坂(別名:一口坂(いもあらいざか))(サムネイルをクリックして拡大します。)


かつて、昭和6年まで元宮のあった場所(旧社名:一口神社)御茶ノ水駅の臨時改札口のとなり(サムネイルをクリックして拡大します。)



風邪・咳封治御守 手作り感いっぱいの御守 木に掛けてある箱のなかに入っていて自由に頂戴出来ます。必ず太田姫神社へ参拝して御礼を申し上げましょう。(サムネイルをクリックして拡大します。)

各地で、目にする「一口」の名称ですが、身近なところでは、麹町にある「一口坂」が有名です。

一口坂 「靖国通り」から、九段北三丁目と四丁目の間を新見附橋の方へ下る坂(写真は、GOOGLEストリートビューよりキャプチャ)近くにNTVのスタジオがあって「一口(ひとくち)坂スタジオ」と、言う名称が一般的ですが実は、元々は「いもあらいさか」と呼んでいたのがいつしか誤読が通例になったそうです。

また、六本木のアマンドの脇からテレ朝方面へ下る坂を「芋洗坂(いもあらいさか)」(写真は、GOOGLEストリートビューよりキャプチャ)と、言いますがここも由緒を調べていくとどうやら関連がありそうです。

芋洗坂の途中に鎮座する「朝日神社」祭祀:倉稲魂大神、市杵島姫大神、大國主大神、大山祇大神、北野天神
祭祀に、疱瘡神の記述はありませんが、この周辺を調べていくと何か面白い発見があるかもしれません。
また、坂下の朝日稲荷の前で芋が売られていたためにこの名が付いたとの説もあります。

さて、一口と書いて、なかなか「いもあらい」とは読めません。
ここのサイトでは、「一ロの地名伝承」として、詳しく考察されていますが諸説あるにせよ結局謎のままのようです。

太田姫神社の由緒を読むと、元は京都競馬場の淀川対岸にある 豊吉( ほうよし )稲荷神社(京都府久世郡久御山町東一口) から勧請したとあります。

京都競馬場の淀川対岸一帯にある地名「東・西一口」

第二京阪 久御山町JCT近くにも「東いもあらい」
もともと「いも」とは、あばた・疱瘡(痘瘡)のことも表し、「いもあらい」とは疱瘡(天然痘)に罹患した際に神仏に祈願し、お水で洗うことであった。(WIKIより)
頂いた由緒を読むと、京都の東一口にある「豊吉稲荷」との関連があるようですが、豊吉稲荷の沿革には特に触れられていないみたいです。
ただし、少なくてもこの地域に地名に「一口」が用いられていることと、太田姫神社の旧社名が「一口稲荷」であった事は事実なので何かしらの関連性は、間違えなくあるわけで今後の研究対象として興味深いところです。
さて、太田姫神社の由緒によれば、
社伝によると、室町時代中期に太田道灌の娘が天然痘(疱瘡)に罹って生死の境をさまよい、京都の一口稲荷神社(いもあらいいなり)が小野篁にまつわる縁起により天然痘に霊験があると聞いた道灌が一口稲荷神社に娘の回復を祈願したところ、天然痘が治癒したという。道灌はこのことに感謝し、長禄元年(1457年)に一口稲荷神社を勧請して旧江戸城内に稲荷神社を築いたとされる。後に城内鬼門に祀られた。
徳川家康の江戸入府後、慶長11年(1606年)に江戸城の改築により、城外鬼門にあたる神田川のほとり(南側・右岸)(現在の東京都千代田区神田駿河台4丁目、後に架けられた聖橋南詰の東側)に遷座した。~ 神社縁起によれば、「太田姫」とは道灌の娘という意味ではなく、小野篁に現れて疱瘡に罹らないように祀れと告げ、また、道灌に狐の姿で現れて江戸城鬼門に祀れと告げた「太田姫命」のこと。
(WIKIより)
とある事から、京都の一口神社は、とても霊験あらたかな神社だったものと伺え知れます。
天然痘が治癒するなど当時としては、さぞ奇跡だった事でしょう。

太田姫一口稲荷神社 祭祀:倉稲魂神、菅原道真、徳川家康
真新しい社殿と鳥居が印象的でした。先ほどご紹介した「御守」は、こちらでは頒布されていません。ご注意ください。
ちなみに、由緒に「(当社は)京都稲荷大社の分社」とありますが、確かに伏見稲荷の稲荷山には「豊吉稲荷大明神」として、お祭りされているようです。
また、半蔵門から西へすぐ 新宿通りの脇にも「太田姫神社(東京都千代田区麹町1丁目5-4)」が鎮座しています。立地的に、九段の一口坂との関連が気になるところです。

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