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玉川から眺める大山と玉川に泳ぐ錦鯉
小野宮でバスを下車した私達は、辺りをつけた前方に見える丘を目指しました。
玉川を渡ると鳥居を発見! 偶然訪れた神社は、相模国式内社「小野神社」というお社でした。神社入り口脇にあった散策マップには「岡津古久遺跡」なるものがあるそうで、なんでも弥生中期の墓地や古墳時代中期~後期の古墳が発見されたそうです。また、小野神社の紹介記事には、末社に阿羅波婆枳(アラハバキ)をお祭りしているとあるではありませんか!!これは大発見でした。
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小野神社と裏手に並べられた道祖神たち
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末社の「阿羅波婆枳神社」右に「日枝神社」左に「淡島神社」を祭る
後で調べて判った事ですがこの「小野神社」社こそ小さな神社では、ありましたがトンでもない神社でありました。(詳細は、また別の機会に報告します。)
目的地(と思われる)場所は、すぐそこと誰もが信じて丘陵の上を目指したのですが頼れるのは、インターネット情報から仕入れた「概念図」のみで、情報では山城の構造を見ることが出来るはずでしたが車道の脇から登った丘陵の上は「岩田山公園」と言うアスレチック遊具が点在する広い公園があるだけで、それらしき遺構も看板もありません。ここからは大山の雄志が正面に見え素晴らしい眺望でした。
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岩田公園と正面に見える大山の雄姿
周囲を散策していると公園の南の外れに隣の丘陵に続く歩道橋があるのを発見したので、散策する事にしました。隣の丘陵の周囲は、起伏がある山道となっていて隣の公園まで続いているようでした。先ほどの案内板の情報から辺りを付け降りたのは良かったのですが結局行き止まりとなってしまい元の道を引き返すハメに。
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岩田公園から続く遊歩道(日産中央遊歩道)と岡津古久遺跡の周辺
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周囲の丘陵 古墳かも知れない。この辺りには小野小町の伝承もある
一旦スタート地点に戻り丘陵の周囲を別の方向から探索をしては見ましたが、結局それらしき痕跡も遺構もみつからず時間も既に4時を回っていたので、残念ながら今回の探索はここで終了。
本来であれば七沢温泉まで行く予定ではありましたが、時間が押していたので本厚木に戻り新年会~カラオケ大会と大盛り上がり。結局帰宅したのは、終電近くで自宅に着いたのは翌日になっていました。
自宅に戻り改めて地図を確認したところ我々の本当の目的地は、もう少し南西に行った処であることが判明しました。また、弥生中期の岡津古久遺跡は、既に調査が終了し現在は、埋め戻されその痕跡をとどめる物は何も無い様です。場所は、ちょうど岩田公園の南から隣の丘陵辺りになるようで、我々が渡った歩道橋の下の道路を建設中に発見されたそうです。
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6000年前の相模湾周辺 伊勢原の近くまで内陸にえぐれている事がわかる。
また、調べるとやはり6000年前の縄文海進でここ岡津古久のある愛甲郡のすぐ近くまで海岸線が来ていた事はあきらかでありこの周辺に古代の民が移り住んでいた事は十分予想されます。西暦668年に高句麗が滅びるとたくさんの流民が渡来人として日本にやって来ていますが、ここ相模湾の大磯にも上陸している事が判っています。また隣の秦野市には、徐福伝承もある事からもう少し掘り下げると面白い事実が分かるかも知れません。
そもそも今回の「ノアの方舟 岡津古久伝承」ですが出所は、研究会の掲示板情報でした。地域伝承など県立図書館に出向き、裏付け調査もしたのですが結局裏が取れず投稿者の方ともコンタクトが取れなくなり半場あきらめかけていたところ、偶然にも別の方から同じような情報があり今回の場所の特定が出来た次第です。
しかし、不思議な事にこれだけトンデモな情報であるのにも関わらずインターネットでは、全く語られていません。どうやら本情報は、地元に古くから住む人々だけに密かに伝えられている情報の様な感じがします。地元の古くから住む古老を訪ねればひょっとすると何か判るかも知れません。
もし何か情報をお持ちの方がいらっしゃれば是非当方まで連絡を下さい。
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