セーレン・キルケゴール著、桝田啓三郎訳、ちくま学芸文庫
「死にいたる病とは絶望のことである」から始まる本書は、
とてもとても読みごたえがあった。
つい先日、なぜか大マジメに「絶望」について考えたところだったし、
その中で、かなり自分自身のことも整理したつもりになっていた。
でも、私が考えるようなことなんて、キルケゴールはとっくにお見通し。
自分でも、頭の片隅で「単に、おろかなだけじゃないか?」と思っていたことを、
バッサリと切って捨てられたように思う。
ここまでやってくれると気分がいい。
でも、後半、絶望とキリスト教の関係に話がうつってくると・・・、
正直なところ、ほとんど実感をともなわなかった。
キルケゴール自身が19世紀の人だし、当時の倫理観や宗教観で書かれているところが、
キリスト教徒でも、ヨーロッパ人でもない私に、そうそうわかるはずがない。
と、若干消化不良なところが残ったものの、文章全体としては、とてもおもしろかった。
やはり一度くらいは、聖書を通しで読んでみるべきかな。
話は変わって、テレビのニュースで、
中国の円明園から盗まれた像の頭部が、オークションにかけられたという報道を見た。
あるフランスの大富豪の遺品だとか。
約34億円で落札したのは中国人で、お金を支払わないと言っているらしい。
オークションに出品された時、文化財としての返還を求める中国に対して、
フランス人が、チベットでの人権問題を交換条件にして反論していた。
交換条件にはならないか。そもそも中国がのむわけはないのだし。
円明園は、明朝・清朝の皇帝の避暑地で、多くのヨーロッパ人もその建築に参加した。
当時は、ベルサイユ宮殿に匹敵するほど素晴らしかったらしい。
第二次アヘン戦争のとき、北京に攻め込んだ英仏連合軍が略奪して、焼き討ちした。
いま、焼け跡は公園となっている。私が北京の中で最も好きだった公園。
なぜなら、他のところに比べて人が少ないし、静かだったから。
円明園から持ち去ったもので人権問題を語るフランス人も、
落札しておきながらお金を払わないと言っている中国人も、
なんだか、「どっちも・・・」という気分。
「死にいたる病とは絶望のことである」から始まる本書は、
とてもとても読みごたえがあった。
つい先日、なぜか大マジメに「絶望」について考えたところだったし、
その中で、かなり自分自身のことも整理したつもりになっていた。
でも、私が考えるようなことなんて、キルケゴールはとっくにお見通し。
自分でも、頭の片隅で「単に、おろかなだけじゃないか?」と思っていたことを、
バッサリと切って捨てられたように思う。
ここまでやってくれると気分がいい。
でも、後半、絶望とキリスト教の関係に話がうつってくると・・・、
正直なところ、ほとんど実感をともなわなかった。
キルケゴール自身が19世紀の人だし、当時の倫理観や宗教観で書かれているところが、
キリスト教徒でも、ヨーロッパ人でもない私に、そうそうわかるはずがない。
と、若干消化不良なところが残ったものの、文章全体としては、とてもおもしろかった。
やはり一度くらいは、聖書を通しで読んでみるべきかな。
話は変わって、テレビのニュースで、
中国の円明園から盗まれた像の頭部が、オークションにかけられたという報道を見た。
あるフランスの大富豪の遺品だとか。
約34億円で落札したのは中国人で、お金を支払わないと言っているらしい。
オークションに出品された時、文化財としての返還を求める中国に対して、
フランス人が、チベットでの人権問題を交換条件にして反論していた。
交換条件にはならないか。そもそも中国がのむわけはないのだし。
円明園は、明朝・清朝の皇帝の避暑地で、多くのヨーロッパ人もその建築に参加した。
当時は、ベルサイユ宮殿に匹敵するほど素晴らしかったらしい。
第二次アヘン戦争のとき、北京に攻め込んだ英仏連合軍が略奪して、焼き討ちした。
いま、焼け跡は公園となっている。私が北京の中で最も好きだった公園。
なぜなら、他のところに比べて人が少ないし、静かだったから。
円明園から持ち去ったもので人権問題を語るフランス人も、
落札しておきながらお金を払わないと言っている中国人も、
なんだか、「どっちも・・・」という気分。