ジャン・ボードリヤール著、塚原史訳、紀伊國屋書店刊。
少し背伸びをして読んでみたけれども、とても面白い本だった。
改めて、西洋にとってのキリスト教の存在感を知ったように思う。
キリスト教の世界が、ある意味で決定的に無力化したことが、
こんなにも個人の存在の根幹にかかわる一大事だったのか。
日本は、敗戦のショックと平和ボケ、なんて言われるけれども、
そんなことの比ではないほどの喪失感があるのかもしれない。
そう思った。
そして、文中に出て来たカッコ書きの一文が、とても心に響いた。
(悪を為すことができなくても、他人を不幸にすることなら、いつでも可能だーー
もっとも、それもまた他人を幸福にするのとおなじ錯覚ではある)
うむ。
仕事をしていると、頻繁にこんな状況に出くわす。
私は、どんな組織、どんなプロジェクトに属していても、
常に「思想」の自由は持ち続けたいと思う。
たとえその「思想」が幻想に過ぎなかったとしても。
でも、普通はそんなことはゆるされない。
「他人(組織)からこう求められているから、これが正しい」と
自分で勝手に思い込んだ考え方に則り、そういった言動をとる。
でも、そこでもう一度「でも」と思う。
私の「思想」の自由は、どこかで保ち続けたいと。
だって、他人(組織)にとって、私はただの「交換が可能なパーツ」に過ぎないから。
そう思って考えたり行動をしたりはじめると、
他人を「不幸」にしたり、他人から「不幸」にされたりする確率があがる。
そして、その傷つけ傷つけられ、ということ自体が錯覚だったりする。
そもそも、相手はまったく違うようにイメージしているかもしれないし、
私も曲解している可能性は大きいのだから。
私は、交換ができない存在である。
それを「神話」が与えてくれないのなら、せめて幻想的な私の「思想」を信じたくなる。
これが私にとっての「オタク」な世界。
少し背伸びをして読んでみたけれども、とても面白い本だった。
改めて、西洋にとってのキリスト教の存在感を知ったように思う。
キリスト教の世界が、ある意味で決定的に無力化したことが、
こんなにも個人の存在の根幹にかかわる一大事だったのか。
日本は、敗戦のショックと平和ボケ、なんて言われるけれども、
そんなことの比ではないほどの喪失感があるのかもしれない。
そう思った。
そして、文中に出て来たカッコ書きの一文が、とても心に響いた。
(悪を為すことができなくても、他人を不幸にすることなら、いつでも可能だーー
もっとも、それもまた他人を幸福にするのとおなじ錯覚ではある)
うむ。
仕事をしていると、頻繁にこんな状況に出くわす。
私は、どんな組織、どんなプロジェクトに属していても、
常に「思想」の自由は持ち続けたいと思う。
たとえその「思想」が幻想に過ぎなかったとしても。
でも、普通はそんなことはゆるされない。
「他人(組織)からこう求められているから、これが正しい」と
自分で勝手に思い込んだ考え方に則り、そういった言動をとる。
でも、そこでもう一度「でも」と思う。
私の「思想」の自由は、どこかで保ち続けたいと。
だって、他人(組織)にとって、私はただの「交換が可能なパーツ」に過ぎないから。
そう思って考えたり行動をしたりはじめると、
他人を「不幸」にしたり、他人から「不幸」にされたりする確率があがる。
そして、その傷つけ傷つけられ、ということ自体が錯覚だったりする。
そもそも、相手はまったく違うようにイメージしているかもしれないし、
私も曲解している可能性は大きいのだから。
私は、交換ができない存在である。
それを「神話」が与えてくれないのなら、せめて幻想的な私の「思想」を信じたくなる。
これが私にとっての「オタク」な世界。