連休のある日、地元の釜めし屋さんで
90歳をこした女性とゆっくりお話をさせていただく機会があった。
彼女がご自宅にもっておられる貴重な資料を拝借できることになり、
「いつお伺いしていいですか?」とたずねると「今日でもいいわよ」。
遅めの昼食の席だったので、いったん帰宅して出なおすと、先方宅へ着くのは夕刻。
人によっては夕飯時にかかってしまうかもしれず、ややためらったが、
「今からでもいいわよ、大丈夫」といってくださるので、善は急げとお言葉に甘えた。
海岸からそう遠くないお宅の居間には
南むきの大きな窓から夕方のほどよい陽が射しこみ、
網戸をとおして清々しい外気がただよう。
そこで資料を借りうけながら、彼女からさまざまな話をうかがった。
なかでも印象深かったのは
原発震災後の現状を「戦争のときとそっくり」といったこと。
先の戦争のあと、けっきょく誰も責任をとらず、
「一億総ざんげ」と不特定多数の責任に帰して、うやむやにされた。
いまも、東電の福島第一原発で大事故がおき1年たつというのに
原発をすすめてきた人たちは誰も責任をとらず、
原発の電力をつかってきた消費者の、不特定多数の、みんなの責任に帰されつつある。
あのときとそっくり――。
そういってから、彼女はこうつづけた。
「冗談じゃない、責任者にはきちんと責任をとってもらわなきゃ」。
そう。
原発事故を契機に
原発の電力をつかってきた消費者が責任の一端を感じ反省することが、
原発をすすめてきた者の責任を不問に帰すことにおわってはいけない。
だまされた責任と、だます責任とは、ぜんぜん違う。
だから、
だまされた者の責任を認めることが、だました者の免罪につながることは、本来ありえない。
・・・夕暮れの海岸線をかえりながら、そんなことをおもった。
緻密にみていかないと。
たとえば「みんな」っていっても、いろんな立場があったはずだし。
それにしても、
見るべきものをみて、聴くべきことをきいて年齢をかさねた人が、
言うべきことをいうさまを目の当たりにしたようで、ちょっと感動的な午後だった。