Peace Of Mind  

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上田毅八郎先生を偲ぶ会と、田宮俊作会長の追悼メッセージ、全文紹介いたしいます

2016年10月02日 | プラモデル・模型
今日は昨日出かけてまいりいました
上田毅八郎追悼展と「偲ぶ会」より、
偲ぶ会の模様と、
タミヤ会長田宮俊作様の追悼メッセージを全文紹介させていただきたいと思います


昨日から静岡ホビースクエアにて
今年6月18日にお亡くなりになりました「上田毅八郎追悼展」が開催になりました
昨日は午後1時より上田先生のご家族主催の偲ぶ会も行われ
上田先生に親交のある方々が駆けつけられました


本当に多くの形が偲ぶ会にお越しになりましたので、
ご家族の方もお喜びになっておりました


偲ぶ会はあさひテレビの「松井アナウンサー」の司会で進行されました
松井アナウンサーはプラモデルフリークとしても有名なのですが、
所蔵品の中には今では絶対に見ることの出来ないような
貴重なプラモデルも多々あり・・・
この展示会の為にお貸しくださり皆さんに公開されておりました


偲ぶ会では4人の方が上田先生へのお言葉を話されたのですが、
タミヤ会長の上田先生との出会いなどご自身の思い出を語ってくださいましたので
涙がこぼれてくる感じでした




偲ぶ会の会場では
生前の先生の作画風景などもスライドショーで紹介されておりましいた
スライドショーを見ていると、
本当にすごい先生がこの世を去られてしまったことを実感し、
とても淋しい気持ちになりました

会場には田宮俊作会長様の
上田先生への追悼メッセージが掲げられていたのですが
撮影した写真では読むことが難しそうでしたので、
ここで全文を紹介させていただきたいと思います


追悼 上田毅八郎

昭和33年3月大学の卒業式の直前、母を突然失った私は、
この年から自宅より数キロ先にある父の会社に通い
製材所のいろいろな仕事をすることになった。
父と運転手が前の席に乗ると、小さなダットサントラックの後部座席は
荷物を積む場所しかないので
ここに私は運転席と背中を合わせるように座って通勤した。
製材木工所と言われる会社だけあって大卒の私のする仕事はごく限られていて、
当面できる仕事は単純作業しかない。
この単純作業の繰り返しを続ける中で、いろいろなことを考えることによって
時間の過ぎるのを計る。当時の仕事の90%は、軍艦模型の材料でいろいろな部品などを削ったりすることであったが、このような中でまずこれを変えなければいけないと思ったことは、
BOXTOP の単純なラベルをやめてしっかりした軍艦の原画を描いてもらい
その雄姿を写真製版で印刷することであった
そうしなければ店頭に並べても商品価値は上がらないし
人を引き付ける要素に乏しいと感じたからである
幸い軍艦の描きとしては右に出るものはいないと言われていた
上田毅八郎氏が同じ町内で塗装業を営んでいた
当時から今も続いているデルタクラブと言う模型同好会のリーダー格で
主に飛行機、艦船模型を作る人たちが集まっているのが、
その当時の素材は木製であった。
ある時、この上田氏のところにお伺いを立てる為に
恐る恐る出かけてみた。
私の会社の軍艦模型の絵を描いてもらえないか、と言うお願いのためである。
かなり気難しい人であると言う評判だったので、当時まだ23歳で若造と言われる年齢だった私は、
当たって砕けろと言う気持であった。
商売の話をしながら私の意図を話すと、意外と気楽な返事をいただけた。
「そうか、それなら、描いてみるか」である。
もちろん当時は、木製の武蔵や重巡クラスの巡洋艦が最初のお願いであった。
上田氏の本業は塗装業であるから一日の仕事が終わって自宅に戻り
食事を済ませてから絵筆を持つ。
当然私もその時間に合わせて、ご自宅訪問と言う事になる。
概ね夜の8時ごろからである。
私の軍艦に関する知識の大部分は、上田氏に絵を描いてもらう傍らにいて会話の中から聞いて
学んだことであった。
上田氏は戦時中輸送船の後部甲板の機銃士であり、様々な艦とすれ違ったり、また数回撃沈された末、利き手の右腕に怪我をし、戦後は左手で筆を持つようになっていた。
上田氏の凄いところは、海戦となった様々な海の色を覚えていたこと、各艦の波の切り方を
知っていたこと、そして軍艦の大きさを実に見事にBOXTOPに表現されたことである。
時折私への質問の中で、「波長500mの波を見たことがあるか」と尋ねられたことがあるが、
もちろん私は見たことなどあるはずもない、どうして機銃手の自分だけが生き残っているか等等
興味津々な話を絵を描きながらしてくれるのである。
絵を描き上げるのは、実に早かったが、問題はこれが本業ではないことであった。
プラモデルの時代になると、千葉県の柏市にある小松崎茂先生にまずお願いを立てることも
私の仕事の大きな部分となっていた。
上田氏が模型のパッケージの絵を専門の仕事にするようになったのは
十数年たって塗装業の仕事を辞められた時からである。
丁度このころに静岡の模型組合4社のウォーターラインシリーズが始まり
このシリーズのBOXTOPの大半が上田氏の手によるものである。
ところが今年の6月22日の朝、突然私のところにお嬢さんから上田氏の訃報が届いた。
今夜父の通夜なので田宮さんと常務の曽根さんのお二人に見送ってほしいとの事。
90歳をしばらく過ぎたころ、いろいろな健康のケアをしてくれる施設に入所され
もう絵を描ける状態ではなかったが、
私たちは時折浜松インター近くにあるこの場所を訪問していた。
今年は5月のホビーショーが始まる前に尋ねたばかりであった。
その後に体調が急変し、病院のお世話になって間もなく亡くなられたとの事だが、
病院の世話になっていたことを知らなかった私は何とも言えない虚しさに襲われ
この日は仕事も手につかなかった。
今まで上田氏に教えていただいたことが、山ほどあると言う方が大勢いらっしゃると思うが、
家族葬にするので新聞にも掲載しないし、他に誰にも知らせなかったという事で、
通夜の席はほんの僅かな人たちだけの参列であった。
このようなことから、偲ぶ会があるなら出席したいと言う人が多い。
いずれそのような機会を持ってくれると言うが、
私は約60年近いお付き合いをしてきた中である。そして上田画伯を慕う人が多いことをこのような機会にご家族にはさらに知っていただきたいと私は思っている。
これほど日本帝国海軍の艦船を愛情をこめて見事に表現された方が、あったであろうか。
失ったものがあまりにも大きく、私は今もって残念でならない。
今はただ、心からご冥福をお祈りするばかりである。
 
                          田宮俊作




偲ぶ会に出席した方々には
田宮俊作様から特性のうちわがプレゼントされました
私たちにとっては偲ぶ会に出席させていただいた思い出に・・・
そしてタミヤ会長さまの上田先生の事をいつまでも心の中で忘れない!!と言う思いが
伝わってまいりました


偲ぶ会を主催されました上田家からは
生前上田先生が使われていたという
鉛筆を参列者一人一人に一本ずつプレゼントしていただけました

上田先生の形見分けにいただいた鉛筆、
大切にさせていただきたいと思います
そして鉛筆を見ながら、上田先生の事を思いたいと思います



上田毅八郎追悼展は9日日曜日まで静岡ホビースクエアにて開催されておりますので、
是非足をお運びいただき、
上田先生の描かれた素晴らしい絵の数々を堪能していただけたらと思います

明日からは上田先生の作品の数々を
沢山の写真を使って紹介したいと思います
素晴らしい絵画の数々ですので、お楽しみいただけたら嬉しいです



 では、これからもよろしくお願いいたします