8月16日にオスプレイ問題についてのブログ記事(第2弾)を投稿した後、友人たちとゴルフ旅行に出かけ、19日に帰宅しました。お盆期間ではありましたが、サラリーマンたちがお盆旅行や故郷に戻るのは多分お盆期間の前半で15日以降は帰宅ラッシュで高速道路の上り線は大渋滞が連日続くだろうけど、下り線はがら空きになるだろうと予測して日程を組んだのですが、「どんぴしゃ」で道路はすいすい、ホテルもガラガラ、ゴルフ場に至っては無人の野を行くがごとき状態でプレイもすいすいでした。「もう少し若ければ2ラウンドできたね」と笑いあったほどでした。で、20日は久しぶりにフィットネスクラブで汗をかき、夕食後に留守中に取り置きしてもらっていた読売新聞にざっと目を通し、今後のブログ投稿するつもりの参考になる記事を切り抜く作業に没頭しました。
その中で特に目を引いたのは終戦記念日の15日の社説でした。社説スペースをすべて使った読売新聞の主張で、格調も高く、高校生でも理解できるだろう平易な表現で、かつ論理的整合性もほぼ完ぺきに満たしており、「久しぶりにいい社説を読ませてもらった」と思ったほどでした。今日(21日)はその社説について書くことにします。
その社説のタイトルは、こうだった。
『「史実」の国際理解を広げたい……日本の発信・説得力が問われる』
しばしば「何様だと思っているのか」と言いたくなるような命令口調の、上から見下すような傲慢さがこのタイトルからは全く感じられない。むしろ読者の視点に立って読者と歴史認識を共有したいという筆者の切ない思いが私の心に響いたほどである。
しばしば新聞をお読みの多くの方は各新聞を対角線上に位置づけ、読売と産経は「右寄り」、朝日と毎日は「左寄り」と思っていらっしゃるようだ。そういう傾向は多少あることは私も否定しないが、各新聞社は「まず右翼(あるいは左翼)的立場ありき」というスタンスで取材したり記事を書いたりしているわけではない。たとえば裁判で口頭弁論が終わり、裁判長が最後に原告・被告の双方に「まだ言いたいことはありますか」と尋ね、双方が「ありません」と答えたら、裁判長は「では判決の日時はいついつ行います」と言って席を立つ。
それからが裁判官たちの本来の仕事で、口頭弁論の間は黙って原告・被告(実際には弁護士)の論争(すでに書面で提出されている「訴状(訴因も含む)」や「答弁書」「準備書面」を巡って「そんな事実はない」とか「こういう証拠をすでに提出している」「そんなのは証拠にならない」などと書面での記載や提出されている「証拠」の是非を問うやり取り)を、時々メモを取りながら基本的には黙って聞いているだけである。裁判官が口頭弁論の最中に口を挿むときは弁護士の主張の意味がよく理解できなかった場合だけで、「こういう意味ですか」と確認する必要性を感じたときだけである。
裁判官たちは1件だけでなく常時数件の裁判を抱えているため、全員が顔を突き合わせて「証拠」や「証言」の信頼性について合議ができるのはせいぜい週に1~2回しかなく、そのため日本の裁判は時間がかかりすぎると国際的な非難を受けているほどである。そしてこの証拠調べが終わったら、まず有罪か無罪かの議論からスタートする。判断が分かれた場合はとことん話し合ったうえ最後は多数決で決める。裁判官のうちだれが多数決の時どういう選択をしたかが公表されるのは最高裁判所での判決の時だけである。最高裁判所の裁判官は総選挙の時国民の審判を仰ぐ必要があり、選挙民が個々の裁判官について○or×をつけるべきかの判断材料を与えるためにどの裁判官がどの事件ではどういう判断を下したかを公表しなければならない定めになっているのだ。
裁判所と同様新聞社も一枚岩ではない。社説は基本的には論説委員が書くが(例外的に主筆が書くこともある。前回の総選挙で民主党が大勝利して政権を奪ったとき、「民・自の大連立」を求める社説を書いたのは渡邊恒雄主筆だと言われている)が8月15日の社説を書いたのはおそらく論説委員長ではないかと思う。もしそうでなかったら、この社説を書いた論説委員はいずれ論説委員長になるだろう、
言っておくが、私はこの社説の筆者に媚を売ろうとしているわけではない(媚びたところで得るものは何もないし、第一ブログを再開するまでは読者センターに電話でけちょんけちょんにけなすケースの方がはるかに多かった)。
ただべた褒めするにはそれなりの理由を説明しないと、読者も納得がいかないだろう。で、私がどうしてこの社説を高く評価したのか、私なりの理由を述べておこう。
まずタイトルが素晴らしい。史実、という単語に鍵カッコをお付けになった。史実とは歴史的事実の簡略語である。そして歴史的事実は本来一つしかないはずだ。が、実際には国の数だけ「史実」が存在する(もっと厳密に言えば、一つの国内にも思想や主義によって多くの「史実」が存在するが、その国の政権を握っている政党が主張する「史実」をその国の「史実」と位置付けざるを得ない)。そしてすべての国が、自国にとって都合のいい解釈をしたり、時には一つか二つの事実をもって、それがあたかも組織的行為であるかのごとき「新史実」を創作したりすることがままある。たとえばこの社説で触れている従軍慰安婦の問題もその一つと言える。
事実として検証されているのは関東軍の一部(あるいはかなり多くの部隊かもしれない)が従軍慰安婦を募集したことだけである。そして「金になる」と自らの意思で応募した韓国女性が大半を占めていたこともすでに検証されている。しかし応募者が少なくて兵士のニーズ(おかしな言い方だが)に応じられなかった場合、その部隊に出入りしていた業者に頼んだり、時には兵士自身が若い娘がいる家に押しかけ強制連行したケースも多分あっただろうとは思う。だが、そういうケースがどのくらいあったのか、また兵士の個人的犯罪だったのか、あるいは部隊長が命令したのかということまで調査するとなると、土台無理な話になってくる。
ちなみに1965年6月に調印された日韓条約には戦後補償として日本が1080億円の経済援助(通貨だけではなく日本の生産物や日本人の役務提供も含まれる)を行うことで「完全かつ最終的に解決されたこととなることを(双方が)確認する」という文言が明確に記載されている。で、日本政府としては建前として戦後補償問題は解決済みと主張し、韓国の従軍慰安婦に対する慰謝料請求を退けてきた。確かに日韓条約をベースに考えると日本の言い分のほうに合理性があるのは間違いないが、日韓条約を締結した時点ではまだ従軍慰安婦問題は表面化していなかったから1080億円の経済援助で「完全かつ最終的に解決済み」と一顧だにしないのは、そういうスタンスで国際社会の理解を得られだろうかと考えると、私は高度の政治的判断で韓国と再交渉するしかないのではないかという気がする。ただ慰謝料を支払うことにしても、いったい誰が関東軍兵士に強制連行されたのかは、もはや証明する手段がないだろう。「自己申告」を無条件に認めることにしたら、自ら応募した女性たちすら我も我もと申告することは間違いない。そこで日本としては「解決済み」と突っぱねるのはもうやめて、「日本軍兵士が強制連行したという証拠を添えて慰謝料請求してくれ。今更物的証拠(例えば日本軍兵士に連行されている時の写真など)が残っているわけはないから、申告者への聞き取り調査や当時の家族か近隣の人の証言も状況証拠として認める。ただし本人に対する聞き取り調査を行う場合は連行された時の状況や日本軍部隊による待遇、さらに1日何回くらい性行為を要求されたかなどをきめ細かく調査してほしい。その調査は韓国政府の主権でやってくれ。ただし韓国側の調査結果に疑わしい点があった場合は、日本が再調査する権利があることに同意することが条件だ」と、下駄をいったん韓国政府に預けてしまうのである。そうなると今度は困るのは韓国政府になる。おかしな調査結果で慰謝料請求したら韓国に国際社会から非難が殺到することは目に見えているからだ。
従軍慰安婦問題の解決策は私の私見だが、多分、社説の筆者も同意してくれるのではないかと思う。
それはともかく社説の筆者は竹島問題についてはこう書いている。
「(韓国の李明博大統領が竹島訪問を強行した件について手厳しく批判したうえで)、なぜ今韓国がこうした暴挙に出たのだろうか。 李大統領は、領有権を巡る日韓対立が続く竹島の支配を誇示するとともに、いわゆる従軍慰安婦問題に言及した。首脳会談で提起したのに日本政府が『誠意を持っていない』とも語っている」と韓国側の主張にも幾分かの理があることを行間でそれとなく示唆している。
そのうえで筆者は韓国がこういう暴挙に出た背景に迫っていく。まず動機については「政権末期で求心力を失った李大統領は、『初めて竹島を訪問した国家元首』という“業績”を残そうとしたとの見方が一般的だ」と語っている。
ここで注目すべきは、見方、という言葉の使い方である。この言葉自体が実は肯定的要素と否定的要素の二律背反的な意味を持っている。そして否定的要素を強調する目的でこの言葉を使う場合は一般的には鍵カッコを付ける。多分筆者はこの言葉に鍵カッコをつけるべきか否か、かなり悩んだのではないだろうか。私見だが、この筆者はとりあえず読者に予断を与えず、読者が自分の頭の中で鍵カットをつけるか否かの選択をゆだねることにしたのではないか、と思う。それはさておき、筆者は背景分析を続ける。「日本の植民地支配を受けた韓国には根強い『反日感情』がある。そこに訴えた大衆迎合主義(ポピュリズム)とも言えよう。(中略)李大統領の行動が、韓国国民のナショナリズムをいたずらにかきたてたのは間違いない」
蛇足だが筆者の主張に補足をしておこう。今日本では政権党なり政府がそういうスタンスをとれない状況にあるが、政権基盤が弱体化したとき政府が「仮想敵国」をでっち上げ、「仮想敵国」に対し厳しいスタンスをとっていることを国民に誇示し、ナショナリズムを煽り立てることで政権基盤の立て直しを図ろうという試みは封建時代からひきづってきた古典的手法である。
筆者は日韓関係にひずみが生じつつある状況を、あまり感情的にならずに憂いている。この社説の格調の高さは次の文章にも表れている。
「良好に見える日韓関係も、政治に歴史認識問題が絡むと、一気に崩れる脆弱さをはらんでいる。歴史認識の違いを乗り越え、建設的な関係を築いていく努力が日韓双方に必要である。(中略)大統領自身、「日本はかつてのような国際的影響力はない」と述べている。韓国が急速な経済成長を遂げた結果、以前ほど日本との関係を重視しなくなった面にも留意しなければなるまい」「日本は竹島問題を国際司法裁判所(論者注:国際司法裁判所は国家間の紛争や対立を戦争などの武力行為によらずに解決するため、オランダ・ハ-グ市に常設されている国連の主要な司法機関)に提訴する方針だ。同時に韓国に対して、不法占拠をこれ以上強化しないよう強く自制を求めるべきである」
筆者の主張に補足するが、国際司法裁判所で問題解決を図るためには当事国双方が裁判で争うことに同意する必要があり、日本は韓国に共同提訴を求めたが、韓国から拒否されている。なお日本はいかなる国のいかなる告訴にも応じることを宣言しているが、現在領有権を巡って日本と対立している韓国や中国、ロシアはその宣言をしておらず、日本がこれらの国に領土問題は国際司法裁判所で解決したいと申し入れているが、いずれの国も拒否している。竹島問題については日本は韓国が同意しなくても単独提訴する構えを示しているが、韓国が出廷を拒否すればやはり裁判を開くことができない、私論だがこうした逃げ道を封じるため、裁判官の3分の2以上が同意すれば出廷の義務が生じるようなシステムを構築すべきではないかと考えている。もちろんその義務すら果たさなかった場合は国連の決議により何らかの制裁を加える必要があると思う。
竹島問題に続いて筆者は北方問題についても言及している。
「一昨年11月、当時のメドベージェフ露大統領は北方領土(論者注:この表現は多少問題がある。「北方領土」の頭に「わが国固有の」との表記を付けるべきだったと思う)国後島を訪ねた。今年7月にも再び首相として国後島を視察している。 ロシア側は先の大戦の結果として北方領土を領有し(論者注:この文中の「領有」にも鍵カッコをつけるべきだった)、しかも独自に開発を進めていることを内外にアピールしたいのだろう」
この文章の中で筆者はおそらく大きなリスクを負うことを承知の上で選んだのではないかと思われる記述をした。「先の大戦」という表記がそれである。すでにご承知の方も多いと思うが、筆者が表記した「先の大戦」についてはマスコミ各社は社としての表記を社内で統一している。朝日の場合は「アジア太平洋戦争」(もともとは岩波用語)で統一しており、読売の場合は「昭和戦争」で統一してきた(ひょっとしたら最近表記を変えたのかもしれないが)。その読売用語である「昭和戦争」という社内統一用語をあえて使用せず「先の大戦」という新定義を創った筆者の意図を忖度するに、従来の読売史観さえ再度検証し直すべきだと考えたのではないだろうか。だとしたらこの4文字が持つ意味はとてつもなく重いものになる。筆者の勇気に拍手喝采!!
ちなみに私自身は「あの戦争」と定義づけている。日本の軍国主義化への最初のレールを引いたのは明治維新であり、第2次世界大戦の一角を担うことになった日本の明治維新以降の歩みを検証していくと(言っておくが私は歴史家ではない。単なる一読者として司馬遼太郎の『坂の上の雲』を読んでいて、ふと彼は明治維新のパラドックスに気付いていないのではないかという単純かつ素朴な疑問を持ったのがきっかけである。そのことについてこのブログで書き出すと収拾がつかなくなってしまうので、次の機会に私の歴史認識とその方法論について書こうと思っている。
社説の筆者は引き続き日本が置かれている政治的、経済的状況をこう分析・指摘する。
「さらに、極東サハリン州で石油・天然ガス開発は順調に進んでおり、もはや北方領土への日本の支援は必要ない、と日本を牽制する狙いもうかがえる。(中略)一方で経済・軍事力で膨張を続ける中国に向き合うためにも、日露関係の強化は欠かせない。 政府は、複眼的視点に立って北方領土問題解決への戦略を練り直さなければならない。 韓国やロシアの主張する『歴史』が世界に拡散しつつある。日本政府はもっと危機感を持って対処すべきである」
筆者はこの後、世界中に拡散している韓国人(2世も含む)たちが慰安婦問題を巡って日本を孤立化しようという狙いの行動を展開している1例を挙げ、彼らに絶好の口実を与えた1993年の河野官房長官談話を取り上げた。
「(河野談話には)日本の官憲が組織的、強制的に(韓国)女性を慰安婦にしたかのような記述があり、誤解を広めることになった。しかし、結局、こうした事実を裏付ける資料的根拠は見つからなかった」
河野氏は当時、一応良識ある政治家の筆頭格としてマスコミからも評価され、国民的人気も高かった。だから河野談話が公表された直後は「さすが河野さん」と称賛の声が持ち上がったくらいである。少なくとも現在は世界各国の中で、よく言えば「国家エゴを最も主張しない国」、悪く言えば「海外の顔色ばかりうかがい、すぐ自虐的になってしまう国」になってしまったと言ってもいいすぎではないと私は思っている。だから足元を見透かされて韓国や中国、ロシアなどに付け込まれてしまうのも無理はない。で。あえてこの社説に付け加えることがあるとすれば、私たちが次の(あるいは次の次)の世代に日本国民として誇りを持って生きていけるようなナショナル・アイデンティティを1日も早く確立するのが私たち世代の義務であり責任でもあると思う。
社説の締めで筆者はこう主張した。
「日本政府は、竹島、北方領土、そして慰安婦などの歴史の事実関係を、国内はもとより、広く海外にも説明すべきだ」「終戦を思い起こす8月の機会に、国際社会に日本の立場を積極的に発信し、理解と支持を獲得していくことが大切である」
私はこの社説の趣旨に賛同する(了)。
その中で特に目を引いたのは終戦記念日の15日の社説でした。社説スペースをすべて使った読売新聞の主張で、格調も高く、高校生でも理解できるだろう平易な表現で、かつ論理的整合性もほぼ完ぺきに満たしており、「久しぶりにいい社説を読ませてもらった」と思ったほどでした。今日(21日)はその社説について書くことにします。
その社説のタイトルは、こうだった。
『「史実」の国際理解を広げたい……日本の発信・説得力が問われる』
しばしば「何様だと思っているのか」と言いたくなるような命令口調の、上から見下すような傲慢さがこのタイトルからは全く感じられない。むしろ読者の視点に立って読者と歴史認識を共有したいという筆者の切ない思いが私の心に響いたほどである。
しばしば新聞をお読みの多くの方は各新聞を対角線上に位置づけ、読売と産経は「右寄り」、朝日と毎日は「左寄り」と思っていらっしゃるようだ。そういう傾向は多少あることは私も否定しないが、各新聞社は「まず右翼(あるいは左翼)的立場ありき」というスタンスで取材したり記事を書いたりしているわけではない。たとえば裁判で口頭弁論が終わり、裁判長が最後に原告・被告の双方に「まだ言いたいことはありますか」と尋ね、双方が「ありません」と答えたら、裁判長は「では判決の日時はいついつ行います」と言って席を立つ。
それからが裁判官たちの本来の仕事で、口頭弁論の間は黙って原告・被告(実際には弁護士)の論争(すでに書面で提出されている「訴状(訴因も含む)」や「答弁書」「準備書面」を巡って「そんな事実はない」とか「こういう証拠をすでに提出している」「そんなのは証拠にならない」などと書面での記載や提出されている「証拠」の是非を問うやり取り)を、時々メモを取りながら基本的には黙って聞いているだけである。裁判官が口頭弁論の最中に口を挿むときは弁護士の主張の意味がよく理解できなかった場合だけで、「こういう意味ですか」と確認する必要性を感じたときだけである。
裁判官たちは1件だけでなく常時数件の裁判を抱えているため、全員が顔を突き合わせて「証拠」や「証言」の信頼性について合議ができるのはせいぜい週に1~2回しかなく、そのため日本の裁判は時間がかかりすぎると国際的な非難を受けているほどである。そしてこの証拠調べが終わったら、まず有罪か無罪かの議論からスタートする。判断が分かれた場合はとことん話し合ったうえ最後は多数決で決める。裁判官のうちだれが多数決の時どういう選択をしたかが公表されるのは最高裁判所での判決の時だけである。最高裁判所の裁判官は総選挙の時国民の審判を仰ぐ必要があり、選挙民が個々の裁判官について○or×をつけるべきかの判断材料を与えるためにどの裁判官がどの事件ではどういう判断を下したかを公表しなければならない定めになっているのだ。
裁判所と同様新聞社も一枚岩ではない。社説は基本的には論説委員が書くが(例外的に主筆が書くこともある。前回の総選挙で民主党が大勝利して政権を奪ったとき、「民・自の大連立」を求める社説を書いたのは渡邊恒雄主筆だと言われている)が8月15日の社説を書いたのはおそらく論説委員長ではないかと思う。もしそうでなかったら、この社説を書いた論説委員はいずれ論説委員長になるだろう、
言っておくが、私はこの社説の筆者に媚を売ろうとしているわけではない(媚びたところで得るものは何もないし、第一ブログを再開するまでは読者センターに電話でけちょんけちょんにけなすケースの方がはるかに多かった)。
ただべた褒めするにはそれなりの理由を説明しないと、読者も納得がいかないだろう。で、私がどうしてこの社説を高く評価したのか、私なりの理由を述べておこう。
まずタイトルが素晴らしい。史実、という単語に鍵カッコをお付けになった。史実とは歴史的事実の簡略語である。そして歴史的事実は本来一つしかないはずだ。が、実際には国の数だけ「史実」が存在する(もっと厳密に言えば、一つの国内にも思想や主義によって多くの「史実」が存在するが、その国の政権を握っている政党が主張する「史実」をその国の「史実」と位置付けざるを得ない)。そしてすべての国が、自国にとって都合のいい解釈をしたり、時には一つか二つの事実をもって、それがあたかも組織的行為であるかのごとき「新史実」を創作したりすることがままある。たとえばこの社説で触れている従軍慰安婦の問題もその一つと言える。
事実として検証されているのは関東軍の一部(あるいはかなり多くの部隊かもしれない)が従軍慰安婦を募集したことだけである。そして「金になる」と自らの意思で応募した韓国女性が大半を占めていたこともすでに検証されている。しかし応募者が少なくて兵士のニーズ(おかしな言い方だが)に応じられなかった場合、その部隊に出入りしていた業者に頼んだり、時には兵士自身が若い娘がいる家に押しかけ強制連行したケースも多分あっただろうとは思う。だが、そういうケースがどのくらいあったのか、また兵士の個人的犯罪だったのか、あるいは部隊長が命令したのかということまで調査するとなると、土台無理な話になってくる。
ちなみに1965年6月に調印された日韓条約には戦後補償として日本が1080億円の経済援助(通貨だけではなく日本の生産物や日本人の役務提供も含まれる)を行うことで「完全かつ最終的に解決されたこととなることを(双方が)確認する」という文言が明確に記載されている。で、日本政府としては建前として戦後補償問題は解決済みと主張し、韓国の従軍慰安婦に対する慰謝料請求を退けてきた。確かに日韓条約をベースに考えると日本の言い分のほうに合理性があるのは間違いないが、日韓条約を締結した時点ではまだ従軍慰安婦問題は表面化していなかったから1080億円の経済援助で「完全かつ最終的に解決済み」と一顧だにしないのは、そういうスタンスで国際社会の理解を得られだろうかと考えると、私は高度の政治的判断で韓国と再交渉するしかないのではないかという気がする。ただ慰謝料を支払うことにしても、いったい誰が関東軍兵士に強制連行されたのかは、もはや証明する手段がないだろう。「自己申告」を無条件に認めることにしたら、自ら応募した女性たちすら我も我もと申告することは間違いない。そこで日本としては「解決済み」と突っぱねるのはもうやめて、「日本軍兵士が強制連行したという証拠を添えて慰謝料請求してくれ。今更物的証拠(例えば日本軍兵士に連行されている時の写真など)が残っているわけはないから、申告者への聞き取り調査や当時の家族か近隣の人の証言も状況証拠として認める。ただし本人に対する聞き取り調査を行う場合は連行された時の状況や日本軍部隊による待遇、さらに1日何回くらい性行為を要求されたかなどをきめ細かく調査してほしい。その調査は韓国政府の主権でやってくれ。ただし韓国側の調査結果に疑わしい点があった場合は、日本が再調査する権利があることに同意することが条件だ」と、下駄をいったん韓国政府に預けてしまうのである。そうなると今度は困るのは韓国政府になる。おかしな調査結果で慰謝料請求したら韓国に国際社会から非難が殺到することは目に見えているからだ。
従軍慰安婦問題の解決策は私の私見だが、多分、社説の筆者も同意してくれるのではないかと思う。
それはともかく社説の筆者は竹島問題についてはこう書いている。
「(韓国の李明博大統領が竹島訪問を強行した件について手厳しく批判したうえで)、なぜ今韓国がこうした暴挙に出たのだろうか。 李大統領は、領有権を巡る日韓対立が続く竹島の支配を誇示するとともに、いわゆる従軍慰安婦問題に言及した。首脳会談で提起したのに日本政府が『誠意を持っていない』とも語っている」と韓国側の主張にも幾分かの理があることを行間でそれとなく示唆している。
そのうえで筆者は韓国がこういう暴挙に出た背景に迫っていく。まず動機については「政権末期で求心力を失った李大統領は、『初めて竹島を訪問した国家元首』という“業績”を残そうとしたとの見方が一般的だ」と語っている。
ここで注目すべきは、見方、という言葉の使い方である。この言葉自体が実は肯定的要素と否定的要素の二律背反的な意味を持っている。そして否定的要素を強調する目的でこの言葉を使う場合は一般的には鍵カッコを付ける。多分筆者はこの言葉に鍵カッコをつけるべきか否か、かなり悩んだのではないだろうか。私見だが、この筆者はとりあえず読者に予断を与えず、読者が自分の頭の中で鍵カットをつけるか否かの選択をゆだねることにしたのではないか、と思う。それはさておき、筆者は背景分析を続ける。「日本の植民地支配を受けた韓国には根強い『反日感情』がある。そこに訴えた大衆迎合主義(ポピュリズム)とも言えよう。(中略)李大統領の行動が、韓国国民のナショナリズムをいたずらにかきたてたのは間違いない」
蛇足だが筆者の主張に補足をしておこう。今日本では政権党なり政府がそういうスタンスをとれない状況にあるが、政権基盤が弱体化したとき政府が「仮想敵国」をでっち上げ、「仮想敵国」に対し厳しいスタンスをとっていることを国民に誇示し、ナショナリズムを煽り立てることで政権基盤の立て直しを図ろうという試みは封建時代からひきづってきた古典的手法である。
筆者は日韓関係にひずみが生じつつある状況を、あまり感情的にならずに憂いている。この社説の格調の高さは次の文章にも表れている。
「良好に見える日韓関係も、政治に歴史認識問題が絡むと、一気に崩れる脆弱さをはらんでいる。歴史認識の違いを乗り越え、建設的な関係を築いていく努力が日韓双方に必要である。(中略)大統領自身、「日本はかつてのような国際的影響力はない」と述べている。韓国が急速な経済成長を遂げた結果、以前ほど日本との関係を重視しなくなった面にも留意しなければなるまい」「日本は竹島問題を国際司法裁判所(論者注:国際司法裁判所は国家間の紛争や対立を戦争などの武力行為によらずに解決するため、オランダ・ハ-グ市に常設されている国連の主要な司法機関)に提訴する方針だ。同時に韓国に対して、不法占拠をこれ以上強化しないよう強く自制を求めるべきである」
筆者の主張に補足するが、国際司法裁判所で問題解決を図るためには当事国双方が裁判で争うことに同意する必要があり、日本は韓国に共同提訴を求めたが、韓国から拒否されている。なお日本はいかなる国のいかなる告訴にも応じることを宣言しているが、現在領有権を巡って日本と対立している韓国や中国、ロシアはその宣言をしておらず、日本がこれらの国に領土問題は国際司法裁判所で解決したいと申し入れているが、いずれの国も拒否している。竹島問題については日本は韓国が同意しなくても単独提訴する構えを示しているが、韓国が出廷を拒否すればやはり裁判を開くことができない、私論だがこうした逃げ道を封じるため、裁判官の3分の2以上が同意すれば出廷の義務が生じるようなシステムを構築すべきではないかと考えている。もちろんその義務すら果たさなかった場合は国連の決議により何らかの制裁を加える必要があると思う。
竹島問題に続いて筆者は北方問題についても言及している。
「一昨年11月、当時のメドベージェフ露大統領は北方領土(論者注:この表現は多少問題がある。「北方領土」の頭に「わが国固有の」との表記を付けるべきだったと思う)国後島を訪ねた。今年7月にも再び首相として国後島を視察している。 ロシア側は先の大戦の結果として北方領土を領有し(論者注:この文中の「領有」にも鍵カッコをつけるべきだった)、しかも独自に開発を進めていることを内外にアピールしたいのだろう」
この文章の中で筆者はおそらく大きなリスクを負うことを承知の上で選んだのではないかと思われる記述をした。「先の大戦」という表記がそれである。すでにご承知の方も多いと思うが、筆者が表記した「先の大戦」についてはマスコミ各社は社としての表記を社内で統一している。朝日の場合は「アジア太平洋戦争」(もともとは岩波用語)で統一しており、読売の場合は「昭和戦争」で統一してきた(ひょっとしたら最近表記を変えたのかもしれないが)。その読売用語である「昭和戦争」という社内統一用語をあえて使用せず「先の大戦」という新定義を創った筆者の意図を忖度するに、従来の読売史観さえ再度検証し直すべきだと考えたのではないだろうか。だとしたらこの4文字が持つ意味はとてつもなく重いものになる。筆者の勇気に拍手喝采!!
ちなみに私自身は「あの戦争」と定義づけている。日本の軍国主義化への最初のレールを引いたのは明治維新であり、第2次世界大戦の一角を担うことになった日本の明治維新以降の歩みを検証していくと(言っておくが私は歴史家ではない。単なる一読者として司馬遼太郎の『坂の上の雲』を読んでいて、ふと彼は明治維新のパラドックスに気付いていないのではないかという単純かつ素朴な疑問を持ったのがきっかけである。そのことについてこのブログで書き出すと収拾がつかなくなってしまうので、次の機会に私の歴史認識とその方法論について書こうと思っている。
社説の筆者は引き続き日本が置かれている政治的、経済的状況をこう分析・指摘する。
「さらに、極東サハリン州で石油・天然ガス開発は順調に進んでおり、もはや北方領土への日本の支援は必要ない、と日本を牽制する狙いもうかがえる。(中略)一方で経済・軍事力で膨張を続ける中国に向き合うためにも、日露関係の強化は欠かせない。 政府は、複眼的視点に立って北方領土問題解決への戦略を練り直さなければならない。 韓国やロシアの主張する『歴史』が世界に拡散しつつある。日本政府はもっと危機感を持って対処すべきである」
筆者はこの後、世界中に拡散している韓国人(2世も含む)たちが慰安婦問題を巡って日本を孤立化しようという狙いの行動を展開している1例を挙げ、彼らに絶好の口実を与えた1993年の河野官房長官談話を取り上げた。
「(河野談話には)日本の官憲が組織的、強制的に(韓国)女性を慰安婦にしたかのような記述があり、誤解を広めることになった。しかし、結局、こうした事実を裏付ける資料的根拠は見つからなかった」
河野氏は当時、一応良識ある政治家の筆頭格としてマスコミからも評価され、国民的人気も高かった。だから河野談話が公表された直後は「さすが河野さん」と称賛の声が持ち上がったくらいである。少なくとも現在は世界各国の中で、よく言えば「国家エゴを最も主張しない国」、悪く言えば「海外の顔色ばかりうかがい、すぐ自虐的になってしまう国」になってしまったと言ってもいいすぎではないと私は思っている。だから足元を見透かされて韓国や中国、ロシアなどに付け込まれてしまうのも無理はない。で。あえてこの社説に付け加えることがあるとすれば、私たちが次の(あるいは次の次)の世代に日本国民として誇りを持って生きていけるようなナショナル・アイデンティティを1日も早く確立するのが私たち世代の義務であり責任でもあると思う。
社説の締めで筆者はこう主張した。
「日本政府は、竹島、北方領土、そして慰安婦などの歴史の事実関係を、国内はもとより、広く海外にも説明すべきだ」「終戦を思い起こす8月の機会に、国際社会に日本の立場を積極的に発信し、理解と支持を獲得していくことが大切である」
私はこの社説の趣旨に賛同する(了)。