とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち 「SYOWA」 8  コメの配達

2016-03-01 23:37:23 | 日記
清平橋米店


上のような動画を見ると、コメ粒の流れに見入って、しばしAは何も言えなくなります。

 戦後まもなく製麺工場をやっていたことは以前述べましたが、その後、精米してコメを販売する米屋に転業しました。と言っても祖父は早死にしていましたし、父は目が見えなくなりましたので、他の女と子どもが主たる労働力でした。それでも父は精米の仕事を手探りで何とかやっていました。ですから小学校時代のAは学校から帰るとコメの配達を手伝いました。
 子ども自転車を買って貰い、荷台を頑丈なものに付け替えて貰って木綿袋に15キロくらいを乗せてよろよろと走らせていました。高学年になると、紙袋で配達するようになりました。慣れると30キロくらいは配達出来ました。子どもにとっては相当の目方でしたがそれでも持ちこたえて配達していました。
 当時のことを思い出しても苦しいとか辛いなどとは思っていなかったようです。むしろ楽しい仕事でした。と言うのもいろんな家の中の様子を見ることが出来たからです。造り酒屋の家はずっと奥まで広い土間が続いていて木製の大きくて頑丈な米櫃が置いてありました。30キロのコメを抱えて運び、糸をほどいて持ち上げて零れないように流し込みます。酒の仕込みの時期には杜氏さんが泊まり込みで仕事しておられたので数回往復しました。代金を現金で頂いたときはいい働きをした満足感でいっぱいになりました。その家は大口消費者でしたから奥さんが愛想がなくてもウキウキしました。
 中には駄賃としてお菓子を新聞紙に包んでくれる家がありました。今度はどんなお菓子だろうかと想像しながら運びました。親切な御婆さんでした。辛かったのはあまり豊かそうではない家への配達でした。代金をなかなか出してくれないのです。あちこちから集めてやっと出してくれました。時には今度の配達の時に一緒にしてねと言われたときもありました。
 今夜炊くコメがないから早く持ってきてといつもの家から電話がありました。父はその家から電話がかかると「あそこのおばさんは出来が悪いけんのー」と愚痴をこぼしていました。
 ある日、こんなことがありました。
 20キロを木綿の袋に詰めて出かけたのですが、着いて荷台を見るとコメが半分くらいになっていました。いつもより軽いなあと思っていたので合点しました。コメが一筋道路に線を描いて続いていました。コメの袋の端が車輪のスポークに擦れて穴が開いていました。しかしどうしよう。叱られる。困った。そう思っていると、玄関からおばさんが出てきて「ありゃ、大変だ」と呟きました。「いいけん、いいけん、お金をあげるけん。黙ってかえー(帰る)だわ」と言ってお金をくれました。Aは「帰ってまた持ってきます」と言いましたがそのおばさんは「いいけん、いいけん、黙っとーだわ」と言いました。Aは帰ってから勇気を出して母に言いました。母は「しかたがない。親切に甘えるわけにはいかないからねえ」と言ってまた20キロ計って持たせてくれました。・・・お陰で地域の家のほとんどの人が顔見知りになりました。(子どものころは確か尺貫法だったと思いますが、分かり易いのでメートル法で表しています)

 今はAの家はコメの商売はしていませんが、Aはコメと聞くといろいろなことを思い出すのです。
 
 
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