とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち 「SYOWA」  9 パイナップル

2016-03-10 00:33:09 | 日記
異国の丘


 Aは昭和19年の生まれ。ということは父親は第1回目の召集が解除され昭和18年ごろは家にいたことになります。その後第2回目の召集があり、鹿児島県都城に行くことになりました。そこで病を得て、所謂傷痍軍人として別府で療養していました。家には白衣を着たたくさんの兵隊が写っている写真があります。都城には明治41年(1908)より旧陸軍連隊本部が置かれ、軍とのつながりが強かったのですが、太平洋戦争末期には特攻基地が設けられ、特攻機が飛び立って行きました。また、市街地も空襲により大きな被害を受けました。父は所謂特攻隊員ではありまんせでした。
 父親の階級は陸軍主計伍長でした。国内の浜田連隊では最初は速射砲の部隊に所属していましたが、のち試験を受け主計として糧秣廠に所属し主計として旧満州に出征しました。業務は主として軍隊の食糧、衣服、日用品等の調達・管理・加工でした。


 糧秣とは、「糧」が兵士の食糧、「秣」が軍馬の餌のことを意味し、つまりレーションと飼料にあたる。ここで行われていた業務はそれらの調達・配給・貯蓄である。それに加えて牛肉缶詰や搗精(精米)作業つまり製造も行われ、更に精米や缶詰の試験・検査の技術的な研究も行われていた。
 糧秣廠は、本廠が東京深川越中島に、支廠は大阪天保山・札幌苗穂・満州に置かれる。本廠の派出所あるいは出張所も存在した。その中で宇品は大阪とともに初期から存在した支廠の一つにあたる。また広島には糧秣の他、被服支廠と兵器支廠と陸軍3支廠が揃っていた。
 現在は一部建物が広島市郷土資料館として用いられている他、モニュメントとして部分的に残されている。[Wikiより] 


家には父親の軍隊時代の写真がたくさんあります。中でも自転車に乗って仕事をしている写真とどこか日本軍が征服した都市の瓦礫の上で首のとれた仏像と並んで写っている写真は引き伸ばしてパネルに貼って保存してあります。他にも軍服姿の写真や仕事着で写っている写真が数十枚写真帳に貼ってあります。表紙には金文字で浜田連隊入隊記念と記してあります。浜田連隊から貰ったアルバムだと思われます。
 父は前線での実戦の経験は少ないようでした。しかし、食糧の補給を絶つために糧秣廠が攻撃されたこともあると思われます。ですから常に戦える準備はしていたことでしょう。
 父が体験した戦争はどのようなものだったか。Aは幼いころよく父親にねだって聞き出していました。その時の父親が語る戦争体験は自分の使命感に燃えていた姿を色濃く投影させていました。階級の上下が厳しく、上官が通ると直立不動の姿勢をとって敬礼したそうです。星一つの差が絶対的な意味を持っていたことをAは興味深く聞いていました。それから、銃には菊のご紋が付いていて、銃を持って演習するときはそのご紋を傷付けないように気を使ったそうです。また、兵隊が敵の銃弾を受け死ぬときは「天皇陛下万歳」と叫ぶように言われていても、そういう時には大概の兵隊は「お母さーん」と言って倒れたとか言っていました。前線で怖くて退却するとその場で銃殺されたとも言っていました。銃の引き金を引く時は「暗夜に霜の降るごとく」静かに落ちいて引いたそうです。父親は敵を、人を、殺しただろうか。Aはそのことが気になっていました。しかし、そのことは具体的には話しませんでした。あくまで自分が見た経験として話していました。
 旧満州の冬は過酷でビール壜が破裂して困ったと言っていました。Aは戦場にビールがあったのが不思議でなりませんでした。父親の話にはよく「くーりー[苦力]」という言葉が出てきました。仕事を進める上で中国人をたくさん使っていたのではと思っていました。戦後間もないころ戦友が訪ねてきました。その戦友は父の焦点が定まらない目に気付くと「お前どうしたんだ」と言って涙を流していました。一晩泊まって帰って行きましたが、何回も何回も「悲しい、悲しい」と呟いていました。
 Aは父親が鹿児島から帰ってきた日のことを忘れることはありません。母親の実家で遊んでいると、母が「お、お父さんが帰ったきた」と叫びました。玄関まで走っていくと、軍服姿の父が直立不動の姿勢で敬礼をして「ただ今帰りました」と大声で言いました。Aは一瞬ひるんで抱きつくことができませんでした。「何にもないので、これしか持って帰っていません」と父親は背嚢の中から缶詰を数個取り出しました。母親が缶切りで開けるとパイナップルが黄色く輝いていました。この情景は夢のような映像と後日母親から聞いた事実とを合わせてAは記憶の奥底に今でも大切にしまっています。昭和20年10月の出来事でした。
 
 
東日本大震災被災地の若者支援←クリック募金にご協力ください。募金額ついに100万円を突破しました。