小野田 寛郎、横井正一。この二人の未帰還兵についてAKIRAは今でも複雑な思いに駆られている。称える人も多いが、戦争の傷跡の深さを実感させられたのです。
【1974年3月12日】 元日本兵の小野田さん 30年ぶりの帰国
小野田 寛郎(おのだ ひろお、大正11年(1922年)3月19日 - 平成26年(2014年)1月16日)は、日本の陸軍軍人、実業家。最終階級は予備陸軍少尉。旧制海南中学校・久留米第一陸軍予備士官学校・陸軍中野学校二俣分校卒。
情報将校として太平洋戦争に従軍し遊撃戦(ゲリラ戦)を展開、第二次世界大戦終結から29年の時を経て、フィリピン・ルバング島から日本へ帰還を果たした。
昭和20年8月を過ぎても任務解除の命令が届かなかったため、赤津勇一陸軍一等兵(昭和24年9月逃亡昭和25年6月投降)、島田庄一陸軍伍長(昭和29年5月7日射殺され戦死)、小塚金七陸軍上等兵(昭和47年10月19日同じく射殺され戦死)と共に戦闘を継続し、ルバング島が再び日本軍の制圧下に戻った時のために密林に篭り、情報収集や諜報活動を続ける決意をする。日本では昭和20年9月に戦死公報を出されたが、1950年に赤津が投降したことで、小野田ら3人の残留日本兵が存在することが判明する。
フィリピンは戦後間もなくアメリカの植民地支配からの独立を果たしたものの、両国の協定によりアメリカ軍はフィリピン国内にとどまることとなった。これを「アメリカ軍によるフィリピン支配の継続」、またフィリピン政府を「アメリカの傀儡政権」と解釈した小野田はその後も持久戦により在比アメリカ軍に挑み続け、島内にあったアメリカ軍レーダーサイトへの襲撃や狙撃、撹乱攻撃を繰り返し、合計百数十回もの戦闘を展開した。
使用した武器は九九式短小銃、三八式歩兵銃、軍刀等であり、その他放火戦術も用いた。この際、弾薬の不足分は、島内に遺棄された戦闘機用の7.7x58SR機関銃弾(薬莢がセミリムド型で交換の必要あり)を九九式実包の薬莢に移し替えて使用していた。30年間継続した戦闘行為によって、フィリピン警察軍、民間人、在比アメリカ軍の兵士を30人以上殺傷したとされる。ただし、アメリカ軍司令官や兵士の殺傷に関して、アメリカ側にはそのような出来事は記録されておらず、実際に殺傷したのは武器を持たない現地住民が大半であった。このことは後に日本とフィリピン政府との間で補償問題へと発展した。
手に入れたトランジスタラジオを改造して短波受信機を作り、アメリカ軍基地の倉庫から奪取した金属製ワイヤーをアンテナに使って、独自で世界情勢を判断しつつ、友軍来援に備えた。また、ゲリラ戦での主な食料として、島内の住民の大切な財産である農耕牛(小野田の主張では野生牛)を捕獲して乾燥肉にしたり、自生するヤシの実を拾っていた。これにより、良質の動物性タンパク質とビタミン、ミネラルを効率良く摂取していた。
また、後述する捜索隊が残した日本の新聞や雑誌で、当時の日本の情勢についても、かなりの情報を得ていた。捜索隊はおそらく現在の情勢を知らずに小野田が戦闘を継続していると考え、あえて新聞や雑誌を残していったのだが、皇太子成婚の様子を伝える新聞のカラー写真や、昭和39年(1964年)の東京オリンピック、東海道新幹線開業等の記事によって、小野田は日本が繁栄している事は知っていた。士官教育を受けた小野田は、その日本はアメリカの傀儡政権であり、満州に亡命政権があると考えていた。
また小野田は投降を呼びかけられていても、二俣分校での教育を思い出し、終戦を欺瞞であり、敵対放送に過ぎないと思っていた。また朝鮮戦争へ向かうアメリカ軍機を見掛けると、当初の予定通り亡命政権の反撃が開始され、フィリピン国内のアメリカ軍基地からベトナム戦争へ向かうアメリカ軍機を見かけると、いよいよアメリカは日本に追い詰められたと信じた。このように小野田にもたらされた断片的な情報と戦前所属した諜報機関での作戦行動予定との間に矛盾が起きなかったために、30年間も戦い続ける結果となった。末期には、短波ラジオで日経ラジオ社の中央競馬実況中継を聞き、小塚と賭けをするのが唯一の娯楽であった。(Wikiより)
【1974年3月12日】 元日本兵の小野田さん 30年ぶりの帰国
小野田 寛郎(おのだ ひろお、大正11年(1922年)3月19日 - 平成26年(2014年)1月16日)は、日本の陸軍軍人、実業家。最終階級は予備陸軍少尉。旧制海南中学校・久留米第一陸軍予備士官学校・陸軍中野学校二俣分校卒。
情報将校として太平洋戦争に従軍し遊撃戦(ゲリラ戦)を展開、第二次世界大戦終結から29年の時を経て、フィリピン・ルバング島から日本へ帰還を果たした。
昭和20年8月を過ぎても任務解除の命令が届かなかったため、赤津勇一陸軍一等兵(昭和24年9月逃亡昭和25年6月投降)、島田庄一陸軍伍長(昭和29年5月7日射殺され戦死)、小塚金七陸軍上等兵(昭和47年10月19日同じく射殺され戦死)と共に戦闘を継続し、ルバング島が再び日本軍の制圧下に戻った時のために密林に篭り、情報収集や諜報活動を続ける決意をする。日本では昭和20年9月に戦死公報を出されたが、1950年に赤津が投降したことで、小野田ら3人の残留日本兵が存在することが判明する。
フィリピンは戦後間もなくアメリカの植民地支配からの独立を果たしたものの、両国の協定によりアメリカ軍はフィリピン国内にとどまることとなった。これを「アメリカ軍によるフィリピン支配の継続」、またフィリピン政府を「アメリカの傀儡政権」と解釈した小野田はその後も持久戦により在比アメリカ軍に挑み続け、島内にあったアメリカ軍レーダーサイトへの襲撃や狙撃、撹乱攻撃を繰り返し、合計百数十回もの戦闘を展開した。
使用した武器は九九式短小銃、三八式歩兵銃、軍刀等であり、その他放火戦術も用いた。この際、弾薬の不足分は、島内に遺棄された戦闘機用の7.7x58SR機関銃弾(薬莢がセミリムド型で交換の必要あり)を九九式実包の薬莢に移し替えて使用していた。30年間継続した戦闘行為によって、フィリピン警察軍、民間人、在比アメリカ軍の兵士を30人以上殺傷したとされる。ただし、アメリカ軍司令官や兵士の殺傷に関して、アメリカ側にはそのような出来事は記録されておらず、実際に殺傷したのは武器を持たない現地住民が大半であった。このことは後に日本とフィリピン政府との間で補償問題へと発展した。
手に入れたトランジスタラジオを改造して短波受信機を作り、アメリカ軍基地の倉庫から奪取した金属製ワイヤーをアンテナに使って、独自で世界情勢を判断しつつ、友軍来援に備えた。また、ゲリラ戦での主な食料として、島内の住民の大切な財産である農耕牛(小野田の主張では野生牛)を捕獲して乾燥肉にしたり、自生するヤシの実を拾っていた。これにより、良質の動物性タンパク質とビタミン、ミネラルを効率良く摂取していた。
また、後述する捜索隊が残した日本の新聞や雑誌で、当時の日本の情勢についても、かなりの情報を得ていた。捜索隊はおそらく現在の情勢を知らずに小野田が戦闘を継続していると考え、あえて新聞や雑誌を残していったのだが、皇太子成婚の様子を伝える新聞のカラー写真や、昭和39年(1964年)の東京オリンピック、東海道新幹線開業等の記事によって、小野田は日本が繁栄している事は知っていた。士官教育を受けた小野田は、その日本はアメリカの傀儡政権であり、満州に亡命政権があると考えていた。
また小野田は投降を呼びかけられていても、二俣分校での教育を思い出し、終戦を欺瞞であり、敵対放送に過ぎないと思っていた。また朝鮮戦争へ向かうアメリカ軍機を見掛けると、当初の予定通り亡命政権の反撃が開始され、フィリピン国内のアメリカ軍基地からベトナム戦争へ向かうアメリカ軍機を見かけると、いよいよアメリカは日本に追い詰められたと信じた。このように小野田にもたらされた断片的な情報と戦前所属した諜報機関での作戦行動予定との間に矛盾が起きなかったために、30年間も戦い続ける結果となった。末期には、短波ラジオで日経ラジオ社の中央競馬実況中継を聞き、小塚と賭けをするのが唯一の娯楽であった。(Wikiより)