すごい曲が出た !!! と当時思いました。「無国籍」。それが不思議な魅力でした。そういう点では久保田早紀の「異邦人」にも通じるところがありますね。
飛んでイスタンブール 庄野真代
「飛んでイスタンブール」(とんでイスタンブール)は、庄野真代の楽曲で、5枚目のシングルとして1978年4月1日に発売された。
庄野の代表曲として知られており、オリコンセールスは46.3万枚。累計売上は60万枚を超える(80万枚とも)。
元々は筒美京平が野口五郎のために作った曲で、野口の音域等を意識しながら完成させた作品だった。しかし仕上がり具合から筒美は「この曲は野口より女性ヴォーカルの方が合ってる」と判断。結局はレコード化されること無いまま、女性歌手用にストックされた。
1978年当時は昭和50年代に入ってからの円高も手伝い、日本人にとって海外旅行がようやく身近なものになっていた(若い日本人女性が海外に出始めた時期がこの頃である)。このような背景から、庄野の担当だった日本コロムビアの三野明洋ディレクター(当時)は、「無国籍なイメージの曲を」ということで筒美に作曲を依頼する。庄野の過去の楽曲を聴いた筒美は、ストックしてあった作品がヴォーカルに合うと確信し、ちあき哲也に作詞を依頼。ちあきはメロディーに“イスタンブール”の語呂合わせを駆使した歌詞を付けてくる。さらに筒美はギリシャの民族楽器「ブズーキ」の使用を船山基紀に提案。船山はそれを基調にイントロのフレーズやオブリガートを考え、全体をエキゾチックな雰囲気の楽曲に仕上げる。
本作は失恋した女性のセンチメンタル・ジャーニーを描いた歌だが、歌詞の中にはトルコの最大の都市であるイスタンブールとは、地理学上全く無関係な「砂漠」が登場している。庄野は、ヒットから2年後の1980年(昭和55年)にイスタンブールを初めて訪れたが、歌詞にある砂漠のエキゾチックなイメージと、実際のトルコの風景が全く違うことを知り、その時の様子を、
ギリシアから長距離バスで到着したイスタンブールは、なんと、雪が舞っていた。しかも湿度が高い。今のようにインターネットで情報を収集して出かける時代ではなかったし、"エキゾチック"と"雪"は全くマッチしないから、この気候には驚いた。
— 庄野真代「歌から始まった出会い」
と述べている。
なお、日本放送協会で歌った時は「そんなジタンの空箱」という歌詞が『「ジタン」はたばこの商標である』という理由から「そんな煙草の空箱」と改変して歌った。
本作の大ヒットにより、日本におけるイスタンブールの知名度は飛躍的に上がり、日本人にとって「トルコといえば『飛んでイスタンブール』」と云われるほどトルコで一番有名な都市、地名となった。
発表当時は、日本からイスタンブールへの直行便はなかったが、1989年に日本 – トルコ間にトルコ航空便が就航(現在、成田国際空港および関西国際空港 – イスタンブール・アタテュルク国際空港間を運航)した。2015年からはトルコのフラッグ・キャリア、ターキッシュ・エアラインズが、日本向けの宣伝に「飛んでイスタンブール、そこから飛ぶのがルール」と本作を意識し、韻を踏んだキャッチコピーを採用した。(Wikiより)
飛んでイスタンブール 庄野真代
「飛んでイスタンブール」(とんでイスタンブール)は、庄野真代の楽曲で、5枚目のシングルとして1978年4月1日に発売された。
庄野の代表曲として知られており、オリコンセールスは46.3万枚。累計売上は60万枚を超える(80万枚とも)。
元々は筒美京平が野口五郎のために作った曲で、野口の音域等を意識しながら完成させた作品だった。しかし仕上がり具合から筒美は「この曲は野口より女性ヴォーカルの方が合ってる」と判断。結局はレコード化されること無いまま、女性歌手用にストックされた。
1978年当時は昭和50年代に入ってからの円高も手伝い、日本人にとって海外旅行がようやく身近なものになっていた(若い日本人女性が海外に出始めた時期がこの頃である)。このような背景から、庄野の担当だった日本コロムビアの三野明洋ディレクター(当時)は、「無国籍なイメージの曲を」ということで筒美に作曲を依頼する。庄野の過去の楽曲を聴いた筒美は、ストックしてあった作品がヴォーカルに合うと確信し、ちあき哲也に作詞を依頼。ちあきはメロディーに“イスタンブール”の語呂合わせを駆使した歌詞を付けてくる。さらに筒美はギリシャの民族楽器「ブズーキ」の使用を船山基紀に提案。船山はそれを基調にイントロのフレーズやオブリガートを考え、全体をエキゾチックな雰囲気の楽曲に仕上げる。
本作は失恋した女性のセンチメンタル・ジャーニーを描いた歌だが、歌詞の中にはトルコの最大の都市であるイスタンブールとは、地理学上全く無関係な「砂漠」が登場している。庄野は、ヒットから2年後の1980年(昭和55年)にイスタンブールを初めて訪れたが、歌詞にある砂漠のエキゾチックなイメージと、実際のトルコの風景が全く違うことを知り、その時の様子を、
ギリシアから長距離バスで到着したイスタンブールは、なんと、雪が舞っていた。しかも湿度が高い。今のようにインターネットで情報を収集して出かける時代ではなかったし、"エキゾチック"と"雪"は全くマッチしないから、この気候には驚いた。
— 庄野真代「歌から始まった出会い」
と述べている。
なお、日本放送協会で歌った時は「そんなジタンの空箱」という歌詞が『「ジタン」はたばこの商標である』という理由から「そんな煙草の空箱」と改変して歌った。
本作の大ヒットにより、日本におけるイスタンブールの知名度は飛躍的に上がり、日本人にとって「トルコといえば『飛んでイスタンブール』」と云われるほどトルコで一番有名な都市、地名となった。
発表当時は、日本からイスタンブールへの直行便はなかったが、1989年に日本 – トルコ間にトルコ航空便が就航(現在、成田国際空港および関西国際空港 – イスタンブール・アタテュルク国際空港間を運航)した。2015年からはトルコのフラッグ・キャリア、ターキッシュ・エアラインズが、日本向けの宣伝に「飛んでイスタンブール、そこから飛ぶのがルール」と本作を意識し、韻を踏んだキャッチコピーを採用した。(Wikiより)