とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 333 太陽がいっぱい (1960) アラン・ドロン

2018-05-03 04:41:12 | 日記
この映画は確か私の高校時代に上映されたと思います。出雲市駅の近くに二つの映画館がありました。その前の大看板の俳優の写真を見るのが楽しみでした。ある日、上半身裸のたくましい美男子が船を操っている大きな写真が出ていました。「太陽がいっぱい」。アラン・ドロン。私は衝撃を受けました。外国にはこんな俳優がいるのか !!! それからずっと見たい見たいと思い続けていました。しかし、実現したのは大学時代でした。小倉の洋画専門の映画館で見ました。・・・ラストシーンは強烈でした。同時代にはジャン=ポール・ベルモンドが活躍していました。ベルモンドは貴族の顔、アラン・ドロンは庶民の顔だよ。と誰かに教えられました。私は変に納得しました。庶民。そうだからこそ・・・。映画の中ので描かれている屈折した心理。私には痛いほど分かるような気がしました。監督はルネ・クレマン。

太陽がいっぱい (1960) アラン・ドロン


アラン・ドロン(Alain Delon, 1935年11月8日 - )はフランスの映画俳優。1960年代から1980年代初めにかけ美男の代名詞的存在だった。身長177センチメートル。

来歴

出生

1935年11月8日パリ郊外のオー=ド=セーヌ県ソーで生まれる。父は小さな映画館を経営、母は後に結婚するナタリーと雰囲気の似た美人で、薬剤師の資格を持っていた。

4歳で両親が離婚し母方に預けられるも、再婚したシャルキュトリ(フランス語版)(ハムやソーセージなど豚肉加工品専門の食品店)の義父と合わなかったこと、そして母親が新たに生れた娘(エディット)だけを可愛がったためにアランはのけ者とされる。さらに追い討ちをかけるように実父も再婚、息子ジャン=フランソワ(後にアランの映画の製作に参加)が生まれていた。それら家庭不和による愛情不足のため、女生徒とたびたび問題を起こして寄宿学校を転々とし、最終的には感化院に入れられ、一時的に鉄格子生活を経験するはめにもなった。その後14歳より前述の食品店で働き始めた。

自分の居場所を求めていたアランは苦肉の策としてフランス海軍へ志願。未成年者は保護者の承諾が必要だったが、母は義父の言うがままに承諾した。この一件で、母への憎しみが根深く残ることになり、次第に女性不信という形で表れていった。こうして17歳で入隊し、マルセイユより貨物船に乗せられ、カービン銃の扱いだけを教わって第一次インドシナ戦争へ従軍することになった。1955年、休戦協定によって20歳で無事除隊後はアメリカとメキシコを放浪、1956年に帰国後はパリのモンマルトルなど方々を転々とし、サン=ジェルマン=デ=プレに落ち着いた。

銀幕へのデビュー

翌1957年の夏、女優のブリジット・オーベール(英語版)から「カンヌで映画祭が開催されるから、ぶらぶらしてみたら? あなたほどの美貌なら、監督の誰かから声が掛かるかもしれないわよ?」と言われた。それがきっかけで、帰国後パリで知り合ったジャン=クロード・ブリアリと2人で、暑かったので上半身裸のままカンヌを歩いてみると、過去にロック・ハドソンを発掘したハリウッドの一流エージェント、ヘンリー・ウィルスンに「君はいい体をしている…」とスカウトされた。その3日後にローマのチネチッタ撮影所にて、映画『武器よさらば』撮影中のデヴィッド・O・セルズニックのスクリーンテスト(英語版)を受け合格し、アメリカ合衆国での成功に太鼓判を押され、英語の習得を条件に7年間の契約を持ちかけられる。しかし「私はフランス人なので、まずはフランスで勝負をしたい」と保留、女優エステラ・ブランの紹介で、イヴ・アレグレ監督の『女が事件にからむ時』(共演:ジャン=ポール・ベルモンド)でデビューした。

1959年、『恋ひとすじに』で共演した西ドイツの若手スター、ロミー・シュナイダーと同棲し婚約するも、1963年に破棄。1960年、ルネ・クレマン監督『太陽がいっぱい』に主演。ニーノ・ロータの曲と共に大ヒットし、世界的にその名を知られる。その後もクレマン監督作品など、数多くのフランス映画・イタリア映画・アメリカ映画に出演し、自身が出演する作品のプロデュースも手がけるなどして活躍。ルキノ・ヴィスコンティ監督の『若者のすべて』にも出演している。その後も『シシリアン』『冒険者たち』『さらば友よ』『暗黒街の二人』『ボルサリーノ』『栗色のマッドレー』『地下室のメロディ』『レッドサン』『友よ静かに死ね』『ショック療法』『ル・ジタン』『アラン・ドロンのゾロ』ほか多数の映画作品に出演した。他には、ドロンがトロツキーを演じた珍しい作品も存在する。ジョゼ・ジョバンニ監督との名コンビは、よく知られている。音楽活動では1973年に、ダリダとアラン・ドロン『甘い囁き』がヒットした。

私生活:女性遍歴

ロミー・シュナイダーと破局した後には、1963年、ナタリー・バルテルミー(のちナタリー・ドロン)と出会う。ナタリー(本名はフランシス・カサノヴァ)はモロッコのカサブランカ出身で、育った境遇が似ていたことや、人生経験豊かなところに惹かれ、親しくなった。1964年にナタリーと結婚、息子アントワーヌ(後にアントニー・ドロンの名でデビュー)が生まれる。この年には3人でアメリカ合衆国のビバリーヒルズに滞在。いくつかの映画に出演したり、アカデミー賞のプレゼンターにも立った。ナタリー・ドロンは後に映画『個人教授』に出演した。

1966年フランスへ帰国。映画『サムライ』に出演したことにより、女優を続けたいと願うナタリーと対立し、やがて離婚。その後、ミレーユ・ダルクと長い愛人関係にあった。1987年にオランダ人モデル、ロザリー・ファン・ブレーメン(フランス語版)と出会う。彼女とは籍は入れず、アヌーシュカ(英語版)とアラン・ファビアン(フランス語版)の2子をもうけるが、2002年に別れた。
ヴェルヴェット・アンダーグラウンドとのアルバムがある、ドイツ人のモデル・歌手のニコとの関係も有名である。ニコは1962年にドロンとの子供である長男クリスティアンを生むが、彼は未だに認知をしていない。クリスティアンはドロンの実母に育てられた。

引退

2017年5月9日、今後出演する1本ずつの映画と舞台を最後に、引退するとの意向を示した。

ルネ・クレマン(René Clément、1913年3月18日 - 1996年3月17日)は、フランスの映画監督。ボルドー生まれ。サスペンス、コメディ、反戦、恋愛映画と、バラエティに富んだ作品を残した。代表作に『禁じられた遊び』、『太陽がいっぱい』など


生涯

少年時代から映画に熱中し、パリの美術学校で建築学を学びつつ。16ミリで短編映画を、18歳にして短編のアバンギャルド映画を製作する。陸軍映画班に入り、記録映画の製作に携わる。除隊後の1934年からカメラマン、助監督として映画界に入り、やがてアニメーション映画、記録映画などを発表。ジャック・タチ脚本・主演のコメディ映画『左側に気をつけろ』(1936年)を含む7本の短編を作る。

1944年、軍事活動委員会が、第二次世界大戦中、ナチス占領下のフランスの鉄道従業員組合のレジスタンスを描く映画をクレマンに依頼し、1945年のセミ・ドキュメンタリー映画『鉄路の闘い』に結実する。この作品は、独特のリアリズム表現が評価され、第1回カンヌ国際映画祭で国際審査員賞と監督賞に輝き、クレマンの名は一躍有名になる。1951年には、幼い子供たちを通して戦争の無残さを訴えた『禁じられた遊び』を発表。ヴェネツィア国際映画祭・金獅子賞とアカデミー名誉賞(外国語映画賞)を受賞。1955年にはエミール・ゾラの小説を映画化した『居酒屋』など、評価の高い傑作群を残し、世界的な巨匠となる。1959年、アラン・ドロンを主役にした『太陽がいっぱい』が大ヒット。

だが、当時のフランス映画界はヌーベルバーグの勢力が強く、以降は商業映画の監督として認知されるようになる。60年代後半からはスリラーに傾倒し、『雨の訪問者』(1969年)などの作品を残した。もともと寡作であったが、スリラー映画においてもそれは変わらず、50代で発表した映画も僅かに5本。1975年公開の『危険なめぐり逢い』以降は、映画製作から離れる。1996年3月17日死去。満82歳没。

(「Wikipedia」より)