とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 235 プリンセス プリンセス 『Diamonds(from DVD「The Last Live」)』

2017-10-17 00:02:18 | 日記
何といっても弾けていて底抜けに明るい。女性だけのロックバンド。この延長に現在の「スキャンダル」が位置づけられる。・・・とか言って実はこの方面のことは何にも私は分かっていません。

プリンセス プリンセス 『Diamonds(from DVD「The Last Live」)』


プリンセス プリンセス(PRINCESS PRINCESS)は、日本のガールズロックバンドである。活動期間は1983年 - 1996年および2012年 - 2016年。ガールズバンドのパイオニアとなり、ヒット曲を連発。女性のみで構成されたバンドの中で、商業的に日本で最も成功したグループである。略称は『プリプリ』。


来歴

1983年 2月、ガールズバンド結成のための楽器ごとのオーディションがTDKレコード主催で行われ、5人のメンバーが選出されて結成。当初のバンド名は「赤坂小町(あかさかこまち)」。このバンド名の由来については、「当時のTDKレコードの所在地であった『赤坂』から」、「『漢字4文字のバンド名をつけてほしい』と依頼されたある雑誌編集者によって名付けられた」、「雑誌上での公募で付けられた」など多くの説がある。5月29日、銀座の山野ホールで初ライブを行う。
4 月から、西日暮里(東京都荒川区)で合宿生活を開始する。合宿開始当初(1983年ごろ)は、同じ事務所に所属していた木之内美穂とともに合宿生活をしていた。この合宿生活は2年4カ月にも及んだ。

1986年 5月、バンド名を「PRINCESS PRINCESS」へと改名し(名づけ親はムーンライダーズの岡田徹)、ミニアルバム『Kissで犯罪(クライム)』でCBSソニー(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)よりデビュー。この『Kissで犯罪』のプロモーションビデオを事務所関係者が見たことがきっかけで、シンコーミュージックが彼女らへの接触、移籍交渉を開始することになる。
8月、シンコーミュージックで移籍のためのオーディションが行われるが、この時点では移籍には至らなかった。音楽座サイドがプリプリを手放そうとしなかったことや、オーディションを見た社員の反応があまり良くなかったことが理由であった。だが当時シンコーミュージックの社員で、後に彼女らのマネージャーになった「市ヤン」こと市村恵美子は、彼女らのライブを生で見て「このバンドはいける」と思い、社長の説得にあたった。

1989年 1月、女性だけのバンドとして初の日本武道館公演を行う(翌年より正月に公演が行われるようになり、以後1996年まで毎年行われた)。
4月、7枚目のシングル「Diamonds」をリリース、オリコンチャート1位を獲得し、ミリオンセラーを記録する。同曲の大ヒットとともに一躍トップアーティストの仲間入りを果たし、人気は頂点に達する。同曲では第22回日本有線大賞も受賞し、NHK紅白歌合戦からも「Diamonds」での出演のオファーが来たが、スケジュール上の都合で辞退する。
このブレイクをきっかけに「Diamonds」発売以前にリリースされていた曲も注目されるようになる。7月、既にEP盤として発売されていた2ndシングル「世界でいちばん熱い夏」がCD化され、オリコンチャートで1位を獲得。カップリング曲の「世界でいちばん熱い夏(平成レコーディング)」は、ライブで演奏していたアレンジをレコーディングしたものである。

1995年 4月、プリンセス プリンセスの解散をレコード会社関係者に伝える。実際に解散の話が持ち上がったのは前年の暮れ、新作アルバム制作の話し合いの途中でのことだった。解散の主な理由として、アルバム制作時の打ち合せで出された2つの意見、「プリプリで新しいことをやっていきたい」という意見と、「これまでの間に培われたイメージがあるので、それを崩さず今まで通り変わらずに行くと」という意見が、平行線のまままとまらなかったことが挙げられた。また、奥居が「昔は曲を書くときは天から降ってくる感じで、何も考えずに書けたのに、時間が経つにつれて曲を書く際に考えるようになり、そのことを悩んでいた」ことや、「友達のまま、解散したほうがいい」というメンバーの意向も解散の理由として挙げられる。

1996年 1月24日から始まったラストツアー「PANIC TOUR'96 解散を遊ぼう」は2度目の全県ツアーとなる。「最後に全国のファンにお別れの挨拶に行きたい」というメンバーの意向で実現したが、当初チケットの売れ行きを心配したスタッフからは反対の声が上がったという。結局その心配は杞憂に終わり、チケットは1県だけ若干売れ残った程度で、ほぼ完売した。
2月、アンコールシングル「夏の終わり」リリース。最後のシングルとなる。
5月31日の日本武道館ライブをもってプリンセス プリンセスはその活動に終止符を打つ。バンド活動は13年間にわたり、ライブの観客動員数は190万人を記録。13年間で発表されたシングルは21枚、アルバムは15枚(ベスト盤含む)。オリジナルソングは120曲に上った。
この頃テレビ番組『とんねるずのハンマープライス』で「プリンセス・プリンセスのメンバーの一人になれる権」がオークションにかけられ、ファン2人によるマッチレースの末、当時番組史上最高額での落札となった(453万円)。(Wikiより)

あちこち「SYOWA」 234 飛んでイスタンブール 庄野真代

2017-10-15 22:54:19 | 日記
すごい曲が出た !!! と当時思いました。「無国籍」。それが不思議な魅力でした。そういう点では久保田早紀の「異邦人」にも通じるところがありますね。

飛んでイスタンブール 庄野真代



「飛んでイスタンブール」(とんでイスタンブール)は、庄野真代の楽曲で、5枚目のシングルとして1978年4月1日に発売された。

庄野の代表曲として知られており、オリコンセールスは46.3万枚。累計売上は60万枚を超える(80万枚とも)。
元々は筒美京平が野口五郎のために作った曲で、野口の音域等を意識しながら完成させた作品だった。しかし仕上がり具合から筒美は「この曲は野口より女性ヴォーカルの方が合ってる」と判断。結局はレコード化されること無いまま、女性歌手用にストックされた。

1978年当時は昭和50年代に入ってからの円高も手伝い、日本人にとって海外旅行がようやく身近なものになっていた(若い日本人女性が海外に出始めた時期がこの頃である)。このような背景から、庄野の担当だった日本コロムビアの三野明洋ディレクター(当時)は、「無国籍なイメージの曲を」ということで筒美に作曲を依頼する。庄野の過去の楽曲を聴いた筒美は、ストックしてあった作品がヴォーカルに合うと確信し、ちあき哲也に作詞を依頼。ちあきはメロディーに“イスタンブール”の語呂合わせを駆使した歌詞を付けてくる。さらに筒美はギリシャの民族楽器「ブズーキ」の使用を船山基紀に提案。船山はそれを基調にイントロのフレーズやオブリガートを考え、全体をエキゾチックな雰囲気の楽曲に仕上げる。

本作は失恋した女性のセンチメンタル・ジャーニーを描いた歌だが、歌詞の中にはトルコの最大の都市であるイスタンブールとは、地理学上全く無関係な「砂漠」が登場している。庄野は、ヒットから2年後の1980年(昭和55年)にイスタンブールを初めて訪れたが、歌詞にある砂漠のエキゾチックなイメージと、実際のトルコの風景が全く違うことを知り、その時の様子を、

ギリシアから長距離バスで到着したイスタンブールは、なんと、雪が舞っていた。しかも湿度が高い。今のようにインターネットで情報を収集して出かける時代ではなかったし、"エキゾチック"と"雪"は全くマッチしないから、この気候には驚いた。
— 庄野真代「歌から始まった出会い」
と述べている。

なお、日本放送協会で歌った時は「そんなジタンの空箱」という歌詞が『「ジタン」はたばこの商標である』という理由から「そんな煙草の空箱」と改変して歌った。
本作の大ヒットにより、日本におけるイスタンブールの知名度は飛躍的に上がり、日本人にとって「トルコといえば『飛んでイスタンブール』」と云われるほどトルコで一番有名な都市、地名となった。

発表当時は、日本からイスタンブールへの直行便はなかったが、1989年に日本 – トルコ間にトルコ航空便が就航(現在、成田国際空港および関西国際空港 – イスタンブール・アタテュルク国際空港間を運航)した。2015年からはトルコのフラッグ・キャリア、ターキッシュ・エアラインズが、日本向けの宣伝に「飛んでイスタンブール、そこから飛ぶのがルール」と本作を意識し、韻を踏んだキャッチコピーを採用した。(Wikiより)

あちこち「SYOWA」 233 北国の街/舟木一夫(別れの日)和泉雅子

2017-10-12 01:04:06 | 日記
浦山桐郎監督作品の「非行少女」が特に印象に残っています。画像を探しましたが見つかりませんでした。
名だたる名女優の陰に隠れて忘れ去られようとしているのではと思い、アップさせていただきました。・・・和泉雅子。忘れてならない女優さんです。

北国の街/舟木一夫(別れの日)和泉雅子



和泉 雅子(いずみ まさこ、1947年7月31日 - )は、日本の女優、冒険家、真言宗の僧侶。東京都中央区銀座4丁目出身。血液型はA型。愛称は「マコ」。


銀座・三原橋の傍で寿司割烹店を営む家庭に生まれる。和泉家は江戸時代は代々幕府御用達の家具商を務めた[3]。また、戦国武将の竹中半兵衛の末裔に当たる。維新後は魚介類の卸売業に転じ、魚河岸で鮪を商った後場外で煮干し屋を営み、戦後は三原橋に土地を購入して店を開いた。精華学園女子高等学校卒。

10才で劇団若草の子役になった(太田博之と同期)後、金語楼劇団に入り喜劇を志す。 その後、ジェスチャーに出演する柳家金語楼に鞄持ちとして随伴した際、同番組の共演者で日活のプロデューサー・水の江滝子にスカウトされ、1961年に日活へ入社。以降、青春映画に多数出演し、吉永小百合と松原智恵子と合わせて「日活三人娘」と呼ばれ、絶大な人気を誇った。雑誌『近代映画』の「オールスター投票・女優部門」では、1964年から1968年まで5年連続でベスト10入りし、特に1966年・1967年には吉永小百合に次いで2年連続で2位にランクインしている。

中でも1963年上映の映画『非行少女』(浦山桐郎監督)の主演での演技力が認められ、エランドール新人賞や、ソビエト連邦時代のモスクワ映画祭金賞などの表彰歴を誇る。モスクワ映画祭では審査員を務めたフランスの名優ジャン・ギャバンも「この子はすごい」と語ったほど。彼女の出演した日活作品でよく共演したのが高橋英樹で、2人のコンビは「ポスト吉永小百合・ポスト浜田光夫」と云われた。


「非行少女」一場面

1967年には同じ日活の山内賢とのデュエット曲「二人の銀座」「東京ナイト」が大ヒットし、レコードも何枚かリリースした。しかし1971年に日活は成人映画の路線に転換し、その後は本格的にテレビへ活動の場を移す。
テレビでは映画時代の清純なイメージから一転、1978年には、土曜ワイド劇場「女教師」にて同番組唯一のレイプシーンを演じた。
東京都港区白金台二丁目に『ホテルメイツ』を経営し居住。2005年11月27日を以ってトランクルーム『トランクルームプリンスメイツ』に業態転換し、2014年10月まで営業を続けた。

2009年現在は銀座の自宅と北海道士別市の別荘を行き来する生活を送っている。 近年はユニークなキャラクターを生かしてTBS『爆報! THE フライデー』などのバラエティー番組にも出演している。(Wikiより)

あちこち「SYOWA」 232 三田明=美しい十代=

2017-10-08 07:40:32 | 日記
三田明を思い出すとすっと素直になる。何故だろうか。「ごめんねチコちゃん」の唄を下宿で口遊みながら自然に涙が出てきたこともありました。下記の三島由紀夫の発言も素直に理解できました。不思議な魅力の持ち主だと思います。ここには出ていませんが、和泉雅子の演技力にも私は注目していました。

三田明=美しい十代=


三田 明(みた あきら、1947年6月14日 - )は、日本の演歌歌手、俳優。東京都出身。本名・辻川 潮(つじかわ うしお)。太陽企画所属。
清純な風貌と美声で1960年代を中心にヒットを飛ばした。また、『長七郎江戸日記』など時代劇を中心に俳優としても活動している。

1962年、日本テレビ系のオーディション番組『味の素ホイホイ・ミュージック・スクール』で作曲家・吉田正に認められ、芸能界入り。翌1963年に『美しい十代』で日本ビクターから歌手デビューするとともに、さらに翌1964年には同名の映画で映画初主演。同曲は、往時を知る多くの者達に歌い継がれている青春歌謡であり、代表曲である。
御三家(橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦)に比べると後発のイメージがあるが、全国歌謡ベストテンでは10曲以上の1位をもつなど御三家以上に大健闘した。また当時、この3人に彼を加え「四天王」とも呼ばれた。

1964年から1969年まで6年連続で紅白歌合戦に出場。三島由紀夫は三田のファンであり、昭和天皇について「彼にはエロティシズムを感じない、あんな老人のために死ぬわけにはいかない」とこき下ろした一方、「三田明が天皇だったらいつでも死ぬ」と発言したことがあったという。

1971年に所属事務所である東洋企画が倒産、マネージャーが勝手に三田名義で多額の借金を作り失踪、その返済の為に日本全国への巡業を余儀なくされる。
1972年11月に発生した日本航空351便ハイジャック事件に乗客として、江利チエミらと共に遭遇している。事件発生中に三田は熟睡中で、事件のことを語れず、マスコミから「スチュワーデスと付き合いたい」と、事実無根のことを書かれる。
1970年代、三田を支えていたものとして、バラエティ番組での活躍が挙げられる。もともと「ものまね上手」で知られた三田は自身のショーにも「ものまねコーナー」を作っていたほどだったので、NETテレビの『象印スターものまね大合戦』など、当時全盛の「スターが他のスターの物真似をする番組」では、五木ひろし、森昌子らとともに大賞の常連だった。

1979年12月、自宅火災で顔面に大火傷を負う。
1985年、結婚。
2001年、萬成プライムキャピタル証券(現・ばんせい証券)のCMに平安貴族のスタイルで出演。
2004年、第46回日本レコード大賞功労賞を受賞。
2012年10月10日にデビュー50周年を迎えた。
妹の夫は元プロ野球選手で、現:福岡ソフトバンクホークス二軍バッテリーコーチの森浩之。(Wikiより)

あちこち「SYOWA」 231 夜空のトランペット/夕焼けのトランペット Nini.Rosso

2017-10-07 00:22:08 | 日記
下宿のラジオでよく聞きました。心が洗われるような気持ちになりました。あの学生時代にも一度返りたい。この曲を聴いていてそう思いました。

夜空のトランペット/夕焼けのトランペット Nini.Rosso


ニニ・ロッソ(Raffaele Celeste 'Nini' Rosso, 1926年9月19日 - 1994年10月5日)は、イタリア・トリノ出身のトランペット奏者、作曲家である。ジャズ及びイージーリスニングのジャンルで活動した。「トランペットの詩人」の愛称でよばれる。
ロッソの両親は彼を大学に行かせるが、19歳の時に生家を出てトランペットを学ぶ事を自ら選ぶ。後にナイトクラブで働いていたもののクラブは警察によって営業を停止させられてしまい生家に戻る事になるが、すぐに音楽家としてのキャリアを再開し、イタリアでは最も良く知られたジャズトランペッターとなり、1960年代に活動は最高潮に至る。

1962年にイギリスでレコーディングされた「さすらいのマーチ」は、ケン・ソーン(ケネス・ソーン、映画音楽作曲家でありスーパーマンIIなどが有名)率いるオーケストラにカバーされ、映画『前進か死か (Marcia O Crepa) 』テーマ曲に採用、ヒットする。この曲のロッソのオリジナルはイギリスとイタリアを拠点とするレコードレーベル Durium より間を置かずにリリースされるが、カバーバージョンよりも小さく穏やかな成功となった。

彼の世界的なヒット作「夜空のトランペット (Il silenzio) 」はイタリア、ドイツ、オーストリア、スイスでチャート1位の座を獲得し、100万枚以上を売り上げている。また、1960年代には俳優としても活動していた。
1967年以降は日本にたびたび来日するなど国内でも有名であり、日本の歌謡曲や軍歌をカバーした作品も残した。(Wikiより)
1994年に腫瘍の為、死去。