とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 (番外)【NHK】グリム動画 成田緑夢が金メダル<ピョンチャン>

2018-03-18 15:17:18 | 日記
成田緑夢選手。さわやかな笑顔がいい感じで、日本を元気にしてくれました。ありがとう。「障害のある方や、ケガをした方、そして子どもたちに、 "夢"と"希望"をあきらめないことの大切さを伝えること。」。その夢は大きく実現しましたね。他の選手たちからもいろいろ学びました。ありがとう。夢・希望をあきらめてはいけませんね。

【NHK】グリム動画 成田緑夢が金メダル<ピョンチャン>


成田 緑夢(なりた ぐりむ、1994年2月1日 - )は大阪市住之江区出身のフリースタイルスキー(ハーフパイプ)、スノーボード、トランポリン、陸上選手。平昌パラリンピックの男子スノーボードバンクドスラローム金メダリスト。近畿医療専門学校所属、株式会社サニーサイドアップとアライアンス契約。
本人の夢は、「障害のある方や、ケガをした方、そして子どもたちに、 "夢"と"希望"をあきらめないことの大切さを伝えること。」

経歴

1998年の長野オリンピックではスノーボードのデモンストレーターを務め、小学校時代から国際大会に出場した。2010年の時点で、バンクーバーオリンピック金メダリストのショーン・ホワイトが見せた新技「ダブルマックツイスト1260。」を一発で決める技術を持っていた。平行してトランポリン競技もこなし、上宮高等学校2年時の2010年8月、全国高校選手権の男子個人で歴代最高得点16.3点で最高難度賞を受賞した。

2012年11月からフリースタイルスキー・ハーフパイプに取り組み始め、2013年1月、2月のFISワールドカップに3回出場した後、2013年フリースタイルスキー世界選手権の日本代表に選出され出場。

しかし2013年4月、トランポリンの練習中の事故により左足の腓骨神経麻痺の重傷を負う(障害等級6)。障害を克服してハープパイプ競技に復帰を果たし、さらに2020年開催の東京パラリンピックに出場するため、走り高跳びなどの障害者スポーツにも取り組むようになった。2017年12月、サニーサイドアップとアライアンス契約を結び、更に競技に集中できる環境を整えた。

2018年3月9日より開幕する平昌パラリンピックのスノーボード日本代表に選出。3月12日に行われたスノーボードクロスで銅メダルを獲得した。3月16日、今大会から実施されたスノーボードバンクドスラロームにおいて、3回の滑走すべてで1位をマークし日本勢2個目となる金メダルを獲得した。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」 (番外) Simona Halep vs 大坂なおみ 2018/03/17 SF Highlights

2018-03-18 06:39:59 | 日記
女子テニス界の大型の新人大坂なおみが快進撃 !!! 世界ランキング1位のSimona Halepを破りパリバオープンで決勝に進出。

Simona Halep vs Naomi Osaka 2018/03/17 SF Highlights


大坂 なおみ(おおさか なおみ、1997年10月16日 - )は、日本出身でアメリカ育ちの女子プロテニス選手。自己最高ランキングはシングルス40位。身長180cm、体重69kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。日清食品所属(契約は日清食品ホールディングス扱い)。
2016年現在、日本とアメリカ合衆国の二重国籍である。

来歴

プロ入り前

父はハイチ系アメリカ人、母は日本人。姉の大坂まりもプロテニス選手である。1997年に大阪府大阪市で生まれ、3歳時に一家4人でアメリカのフロリダに移住し、父の手ほどきでテニス競技を始める。育った環境から、日本語よりも英語の方が流暢である。その為、日本語を学習している。大阪市内に住んでいた頃は、練習場は近所の靱公園にあるテニスコートであった。

2013-15年

2013年にプロに転向し、ツアー下部大会を転戦した。2014年7月のWTAツアーバンク・オブ・ウェスト・クラシックで初めて予選を突破し本戦出場。1回戦で対戦したサマンサ・ストーサー(2011年全米オープン覇者)に2-1で勝利、最速193km/hのサーブで大番狂わせを演じた。翌年の10月にはWTAファイナルのライジング・スター・インビテーショナルに出場。予選ではキャロリン・ガルシアに敗れたが、決勝では雪辱を果たし優勝した。

2016年 グランドスラムでの躍進

全豪オープンでは予選を突破し、グランドスラム初出場。本戦でも2回戦で第18シードのエリナ・スビトリナに勝利し3回戦に進出した。4大大会初出場で3回戦進出は小幡陽子以来52年ぶり。3回戦でビクトリア・アザレンカに敗れた。 3月のマイアミ・オープンでは予選を突破し本選出場、本選2回戦で元世界ランキング5位のサラ・エラニを破って3回戦まで進出した。大会後のランキングで95位となりトップ100入りを果たす。

全仏オープンでは1回戦で第32シードのエレナ・オスタペンコに6-4, 7-5で勝利。2回戦でもミリヤナ・ルチッチ=バロニに6-3, 6-3で勝利し、全仏でも3回戦進出。3回戦では世界ランク6位のシモナ・ハレプと対戦、第1セットを先取するも6-4, 2-6, 3-6で惜敗した。 ウィンブルドンはひざのけがのため欠場。

全米オープンでは1回戦で第28シードのココ・バンダウェイに6-7(4), 6-3, 6-4で勝利、2回戦で段瑩瑩に6-4, 7-6(3)で勝利し3回戦進出。3回戦では第8シードのマディソン・キーズを相手に第3セット5-1で、あと2ポイントまで追い込むも、そこから逆転され、5-7, 6-4, 6-7(3)で敗れた。

9月の東レ パン・パシフィック・オープンではワイルドカードで出場。1回戦で土居美咲との日本勢対決に6-4, 6-4で勝利すると、2回戦で第6シードのドミニカ・チブルコバに6-2, 6-1で圧勝、準決勝でエリナ・スビトリナに1-6, 6-3, 6-2で逆転勝利と強豪を撃破し、WTAツアーで自身初の決勝進出を果たす。決勝で元世界ランキング1位のキャロライン・ウォズニアッキに5-7, 3-6で敗れ準優勝となった。大会後のランキングで47位となりトップ50入りを果たす。 これらの活躍が評価され、日本勢初となるWTAツアー最優秀新人賞を受賞した。
11月25日、日清食品ホールディングスとの所属契約を結んだことを発表。

私生活

Instagramやtwitterでも積極的に情報発信している。ビヨンセのファン。テニス選手ではモニカ・プイユやベリンダ・ベンチッチらとtwitterでもやり取りしていて、親交の深さが伺える。アメリカの実家では犬を飼っている。趣味は写真撮影。ツアー先で観光しながら写真を撮りinstagramにアップしている。

2018年2月に羽生結弦が2大会連続でオリンピック金メダルを獲得し際に、羽生のフリーの演技の動画とともに「本当に泣きそう。今まで誰かの熱狂的なファンになったことないけど、ユウユウ(羽生結弦)の熱狂的ファンになったみたい。」と投稿して羽生の演技に感激している。

BNPパリバ・オープン(英語:BNP Paribas Open)とは、毎年3月前半にアメリカ合衆国・カリフォルニア州インディアンウェルズで開催される男女共催の国際テニス競技大会である。インディアンウェルズ・マスターズ(英: Indian Wells Masters)とも呼ばれる。

この大会の翌週に開催されるマイアミ・マスターズ(旧ソニー・オープン・テニス)と共に「春の祭典」と称され、参加ドローの多さから第5のグランドスラムとも呼ばれ、テニス界における重要な大会として定着している。2009年からフランスの証券会社BNPパリバが冠スポンサーを務めている。カテゴリーは男子はマスターズ1000、女子はプレミア・マンダトリーに属する。賞金総額はマスターズ1000、プレミア・マンダトリーの中で最も多く、2012年から男女シングルスの優勝賞金が100万ドルを超えている。また、マイアミ・マスターズと同時に連続で優勝することを「サンシャイン・ダブル」と呼ばれる。
2015年には観客数歴代最多の45万6672人を動員した。

(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」 (番外)ZARD ALBUM COLLECTION MEDOLEY

2018-03-16 18:04:07 | 日記
・・・コメントできません。これでこのシリーズの締めくくりとしたい気持ちでいます。それほどいろんな面で私の心の奥底にこのアーティストは記憶されています。感謝の気持ちで一杯です。

ZARD ALBUM COLLECTION MEDOLEY



坂井 泉水(さかい いずみ、1967年2月6日 - 2007年5月27日)は、日本の女性歌手、作詞家。ZARDのボーカリスト。本名は蒲池 幸子(かまち さちこ)。 ビーイングの関連会社「泉水(SENSUI)」に所属した。血液型はA型。またZARDとしてビーインググループのレコード会社「B-Gram RECORDS」に所属。

人物

両親・弟妹の5人家族。20代前半まではモデルやレースクイーンとして活動していたが、歌手になるという強い希望を持ち続け、1991年2月、音楽グループ「ZARD」のボーカルとして歌手デビューを果たす。90年代を代表する女性歌手として、多くのヒット曲を生み出した。6thシングル「負けないで」で大ブレイクして以降、メディア露出を封印。子宮頸がんの治療入院中、病棟脇にある非常用スロープからの転落により頭部を強打し、脳挫傷により死去した。生涯を通し、数回のテレビ、ラジオへの出演以外はほとんどマスメディアに登場せず、ライブも殆ど行わなかった。

ZARD(ザード)は、作詞・ボーカルを務めていた坂井泉水を中心とした日本の音楽ユニットである。「ZARD」の名称は後述の事情から坂井自身と同義に用いられる場合もある。2007年に坂井が逝去した後は残された音源を元にアルバムの制作やフィルムコンサートなどがプロデューサーの長戸大幸を中心とする制作スタッフによって行われている。所属事務所は泉水(SENSUI)。所属レコード会社はビーイング。レーベルはB-Gram RECORDS。

1990年代に女性ボーカルとしては最も多くのCD売上げ枚数を記録しており、シングルでは「負けないで」「揺れる想い」「マイ フレンド」がミリオンセラーとなっている。また、アルバムでは9作が連続でミリオンを達成しており、史上最多記録である(オリコン調べ)。
2016年2月10日、デビュー25周年を迎えた。

略歴

1991年 - 1993年

街頭でスカウトされてモデル活動をしていた坂井泉水が、テレビドラマ『結婚の理想と現実』の主題歌歌手として抜擢されてメジャーデビューする。デビュー直後のZARDは坂井のソロプロジェクトであり、まだ音楽制作に不慣れな坂井を長戸が傍でサポートしていた。2ndアルバム『もう探さない』からバックバンドの4人がクレジットされ、1993年2月前後までバックバンドのメンバーがついていた。

1993年 - 2001年

1993年、6thシングル「負けないで」が自身初のオリコンチャート1位獲得しミリオンセラーを記録。その3ヶ月後に、8thシングル「揺れる想い」もミリオンセラーを記録。この2曲を収録した4thアルバム『揺れる想い』が200万枚超の売上を記録し、この年の年間オリコンアルバムチャート1位を獲得。ビーイングブームの代表格になった。この年のオリコンアーティストトータルセールスの1位も獲得。
1994年 - 1996年は、オリコンシングルチャート3位以内、アルバムチャート1位を維持しつつ、1996年、「マイ フレンド」が自身3枚目のミリオンセラーを達成。この間に発売されたオリジナルアルバム『OH MY LOVE』『forever you』『TODAY IS ANOTHER DAY』の3作が次々とミリオンセラーとなった。

1997年は「Don't you see!」と「永遠」が、1998年には「運命のルーレット廻して」がオリコン1位を獲得する。1997年から1998年の間には全9枚のシングルを発売し、常にオリコン最高3位以内はキープしていた。アルバムもシングル同様にオリコン1位を獲得し、1997年に発売されたセレクションアルバム『ZARD BLEND 〜SUN&STONE〜』は200万枚を突破する大ヒットとなった。
1999年第1弾シングル「MIND GAMES」がオリコン1位を獲得。その後、「世界はきっと未来の中」「痛いくらい君があふれているよ」「この涙 星になれ」を発売。8thアルバム『永遠』は初登場1位を獲得しミリオンセラーとなり、その直後に初のベストアルバム『ZARD BEST The Single Collection 〜軌跡〜』『ZARD BEST 〜Request Memorial〜』を発売。オリコン集計で売上合計500万枚以上を記録し、オリコンの年間アーティストトータルセールス2位を獲得。また、ベストアルバム購入者から入場者を抽選する船上ライブを行った。

2001年2月に9thアルバム『時間の翼』発売、オリジナルアルバム最後のオリコン1位を獲得。発売後、坂井泉水が体調不良になり、1年間活動を休止した。

2002年 - 2007年

2002年、「ZARD第二章スタート」というキャッチフレーズをつけ、34thシングル「さわやかな君の気持ち」から活動再開。 2003年、「明日を夢見て」「瞳閉じて」「もっと近くで君の横顔見ていたい」、翌年1月には10thアルバム『止まっていた時計が今動き出した』を発売。

2005年4月にリリースされた両A面シングル「星のかがやきよ/夏を待つセイル(帆)のように」が、1999年リリースの「世界はきっと未来の中」以来約6年ぶりとなるオリコン最高位2位を獲得。同年6月にDVD『What a beautiful moment』を発表(発売月のオリコン月間チャート1位)。9月には11thアルバム『君とのDistance』を発売。

2006年3月に2作連続となる両A面シングル「悲しいほど貴方が好き/カラッといこう!」、5月に「ハートに火をつけて」を発売し、オリコンTOP10獲得数を歴代単独2位の「40」に伸ばした。同年10月25日に、15周年記念のベストアルバム『Golden Best 〜15th Anniversary〜』、活動15年間のPVを集めたDVD『ZARD Le Portfolio 1991-2006』、それまでに発表された坂井泉水のCDジャケットを集めた写真集を同時発売。オリコンアルバムチャート・DVDチャート(総合・音楽)共に初登場1位を獲得し二冠を達成した。
その後、2007年秋を目途に2年ぶりのオリジナルアルバムと3年ぶりのライブツアーが計画されていた

しかし、2006年4月9日に東京都内で行われた「ハートに火をつけて」のPV撮影(生前最後の映像)直後の晩、坂井は体調が急変し救急搬送、その後の検査で子宮頸癌と診断され2006年6月に入院。手術後は回復に向かいつつあったが、2007年4月には肺への転移が発見され再度入退院を繰り返していた。同年5月27日、入院中の病院で脳挫傷により死去。倒れているのが発見された階段付近が、坂井が入院中の散歩の際によく休憩に立ち寄っていた場所とのことから、 5月26日の散歩帰りに階段から転落し後頭部を強打したと推測されている。

坂井死去後

坂井の追悼アルバムとして『Soffio di vento 〜Best of IZUMI SAKAI Selection〜』『Brezza di mare 〜dedicated to IZUMI SAKAI〜』の2枚が発売される。また同時発売の『きっと忘れない』という本で、ラストレコーディングソング「グロリアス マインド」の歌詞が掲載された。この曲は後に43rdシングルとして2007年12月12日に発売され、「星のかがやきよ/夏を待つセイル(帆)のように」以来のオリコン最高位2位を記録した。

また2007年6月から公式サイトなどでファンによるリクエストアルバムの収録曲をアンケート募集した。集計を行う際、50万通もの多くの応募があったため、当初の発売予定から遅らせての発売となる。なお「負けないで」などの楽曲は死後の追悼ライブの音源が収録されている。さらにすでに発売されていた「グロリアス マインド」もリクエストがあったため収録となっている。このアルバムは『ZARD Request Best 〜beautiful memory〜』のタイトルで2008年1月23日に発売され、オリコン最高位1位を獲得した。

2008年4月9日、44thシングルとして未発表曲と1stシングル「Good-bye My Loneliness」のカップリング曲のリアレンジバージョンを収録した両A面シングル「翼を広げて/愛は暗闇の中で」が発売された。
同年5月28日、全44枚のシングルと特典DVDがセットになった『ZARD Premium Box 1991-2008 Complete Single Collection』が発売された。

2009年5月27日、3回忌を迎えるにあたり、45thシングルとして2ndシングル「不思議ね…」のカップリング曲をリアレンジしたシングル「素直に言えなくて」が発売された。

2015年12月31日にはパシフィコ横浜国立大ホールにて、フィルムコンサートとギャラリー展『ZARD 25th Anniversary Eve 〜Screen Harmony & Gallery〜』が開催。

2016年2月10日、デビュー25周年を記念して、オールタイムベストアルバム『ZARD Forever Best 〜25th Anniversary〜』を発売。
(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」 308 雨 [日本語訳付き]  ジリオラ・チンクエッティ

2018-03-15 15:12:40 | 日記
カンツォーネ・ブーム。いい唄がたくさんありました。軽快なメロディーが今でも心をウキウキさせます。ジリオラ・チンクエッティ。この名前は響きがいいのでよく覚えています。


雨 [日本語訳付き]  ジリオラ・チンクエッティ



ジリオラ・チンクェッティ(Gigliola Cinquetti, 1947年12月20日 - )はイタリアのポピュラー音楽の歌手。イタリア・ヴェローナ出身。20ヶ月年上の姉がいる。

略歴

チンクェッティは、1963年のカストロカーロ新人コンテストで優勝。1964年、16歳の時にサンレモ音楽祭で夢みる想い (non ho l'età) を歌い優勝、ユーロビジョン・ソング・コンテスト1964 に同じ曲で臨み、イタリアからの出場者としては初の優勝を果たしたことにより一躍有名となった。またユーロビジョン・ソング・コンテスト勝者としては初めてUKトップ75にチャート・インした。

1966年には愛は限りなく (Dio, come ti amo) が世界的ヒットとなった。当時、カンツォーネ・ブームの日本では、ボビー・ソロと共に本国イタリアを凌ぐ人気となり、日本語の録音も残している。また、伊東ゆかり、弘田三枝子などの日本人歌手が彼女の曲をカヴァーしている。1979年に結婚、翌年二人の男の子の育児に専念するため引退してローマに転居した。

その後、1989年のサンレモ音楽祭に出場を契機に完全に復帰、1990年にはデビュー25周年ツアーを欧州で行った。1991年、復帰後初のアルバム「Tuttintorno」を発売。以後も1993年に来日コンサート開催、95年「Giovane vecchio cuore」でのサンレモ出場など、積極的に活動した。
2017年11月に、24年ぶりとなる来日公演を行った。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」(番外)タラ・クリステン・リピンスキー -1998 Nagano Olympics - Exhibition "Anastasia", "The Rainbow"

2018-03-12 18:00:39 | 日記
タラ・クリステン・リピンスキー。こういうすごい選手もいましたね。オリンピックは奥が深すぎる。


[HD] Tara Lipinski - 1998 Nagano Olympics - Exhibition "Anastasia", "The Rainbow" リピンスキー Липински



タラ・クリステン・リピンスキー(Tara Kristen Lipinski 1982年6月10日 - )は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィア出身の女性フィギュアスケート選手で現在はプロスケーター。1998年長野オリンピック女子シングル金メダリスト。1997年世界フィギュアスケート選手権優勝。


経歴

1982年フィラデルフィアに生まれ、3歳でローラースケートを始める。フィギュアスケートは6歳のときに始めた。1994年の全米選手権ノービスクラスで2位となり、翌1995年全米選手権ではジュニアクラスで2位、同年世界ジュニア選手権で4位となり注目を集めた。
1995-1996年シーズン、全米選手権ではシニアクラスで3位となり、優勝が期待された世界ジュニアでは5位、初参戦の世界選手権ではショートプログラムでコンビネーションと単独の3フリップで転倒し23位スタートとなったが、フリープログラムでは3サルコウ+3ループ、2アクセル+ハーフループ+3サルコウを含む全てのジャンプを成功し、フリー単独では11位、総合15位となった。このあとコーチをリチャード・キャラハンに変えた。

1996-1997年シーズンより本格的にシニアに参戦する。チャンピオンシリーズのスケートカナダおよびスパルカッセン杯で2位、ラリック杯で3位、ファイナルでは優勝を果たす。続く全米選手権優勝、世界選手権優勝と一気に世界の頂点に上り詰めた
この快進撃の原動力となったのは、3回転-3回転のコンビネーションであった。当時リピンスキーはトリプルループ-トリプルループという、当時の女子シングルではかなり難易度の高いコンビネーションジャンプを用いていた。

1997-1998年シーズン、ミシェル・クワンにスケートアメリカ、全米選手権で敗れて2位になるも、持ち味である3回転ループ-3回転ループ、終了間際にトリプルトウループ-シークエンス(ハーフループ)-トリプルサルコウを跳ぶという2つの難度の高いコンビネーションを武器に、技術的に魅せる構成を組む。このコンビネーションに失敗しても、後半でダブルアクセル-シークエンス-トリプルサルコウ-ダブルループの3連続ジャンプに即席で挑戦するなど常に意欲的な姿勢で可能性を見せた。

長野オリンピック

長野オリンピック本番では、ショートプログラムで序盤のトリプルルッツ-ダブルループのコンビネーションジャンプが、ルッツの踏み切りがインサイドとなるミス(いわゆるフルッツ)が有り、同じアメリカ代表のミシェル・クワンに次いで2位発進となる。そして逆転優勝をかけたフリースケーティングでは、プログラムの後半にトリプルループ-トリプルループのコンビネーションを成功させ、さらに最後にはトリプルトウループ-シークエンス-トリプルサルコウも確実に決め、3回転-3回転のコンビネーションジャンプを2回披露してみせた。

その結果、ミシェル・クワン(2位で銀メダル獲得)を技術点で抑えて総合首位となり、冬季オリンピックのフィギュアスケートでは史上最年少となる15歳8ヶ月での金メダルを獲得した。なおフリーの順位点では9人の審査員のうち6人がリピンスキーに1位、3人がクワンに1位をつけた。アメリカの審査員はクワンに1位をつけたものの、総合的にはリピンスキーが断然優れており、しかもすべてのジャンプで安定した着氷と、スローパートで柔らかなスケーティングを見せていた。(「Wikipedia」より)