あるくみるきく_瀬戸内シーカヤック日記

瀬戸内を中心とした、『旅するシーカヤック』の記録

『芸予ブルー』_テーマカラー of 印象派_”瀬戸内シーカヤック日記”

瀬戸内シーカヤック日記: 旅する櫂伝馬_阿賀の御漕船

2010年02月27日 | 旅するシーカヤック
2010年2月27日(土) 今日は、朝から地元の漁協へ、旅する櫂伝馬プロジェクトに関わる相談に行ってきた。
約束の時間に漁協の事務所を訪問し、組合長さんに挨拶させていただく。

プロジェクトの背景や現在までの準備状況、今回訪問した目的である、お願いしたい事をお話しし、それを快諾いただいた後は『御漕船』の話を聞かせていただいた。
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写真を見せていただきながら、組合長さんから地元の伝統的な船についての貴重なお話を伺う。

『押し舟だと言う事ですが、何丁櫓なんですか?』『ここの漕ぎ船は六丁櫓。 昔から宮島の管絃祭に出す船は、ここの漕船と、江波の櫂伝馬いうことに決まっとる』

『昔から管絃祭では、阿賀の漕船と江波の櫂伝馬が競漕して喧嘩するくらいの勢いで競いよった。 そら、ほんまに本気の競漕じゃったよ。 じゃが、もう何年も前からそがなことはやめて、スピードを合わせて漕ごうや、いう感じになっとる』

『江波の方は櫂伝馬の保存会が続けよるが、阿賀じゃあ漁協が続けよる。 今でも8割から9割は漁協関係者』 『昔は、阿賀の四つの地区が毎年交代で管絃祭に出しよったいうことじゃが、わしが知っとるころにはもう全部漁協関係者でやることになっとった。 じゃけえ、漁協で請け負うようになったんは、もうかなり昔じゃろう』

『幸いな事に、まだまだ若い人も入ってきよる。 今は、20代から60代くらいの人が管絃祭に参加しよるよ』

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櫂伝馬プロジェクトに関わる相談については了解いただき、漕船についての貴重なお話も伺うことができたので、『この度はありがとうございました。 では、当日またよろしくお願いいたします』と挨拶して事務所を辞そうとしたら、『あんたあ、せっかくじゃけん、船を見て帰るか?』

『ありがとうございます。 ではぜひ』ということで、倉庫に案内していただき、管絃祭に出すという漕船を見せていただいた。

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『あーこれですか。 まだ、比較的新しいですね』 『そう、これは確か平成10年頃に新造したんよ』 『まだ、この船が造れるところがあるんですか?』 『今じゃあ分からんけど、あの時は江田島で作ってもろうた』

『管絃祭には、この二艘を出すんよ』 『昔は漕いで行きよったらしいが、最近は船で引っ張って行く』
そうか! 当然の事なのだが、動力船がなかった昔は、阿賀から厳島まで櫓を押して行っていたんだ! うーん、これは。 ”旅する櫂伝馬”の意義を再確認。

『ここは、漕ぎ手がみんな漁師じゃし、何年も経験しとる漕ぎ手ばっかりじゃけえ、管絃祭の時も、特に練習なんかせんでも大丈夫なんよ』

『六丁櫓じゃけど、本番じゃあ一艘に二十人くらい乗って、交代で櫓を押す』 『櫓は、艢(とも)が一番大事じゃ。 艢の櫓が一番長くて大きゅうなっとる。 あれは、舵の役目もあるからの。 櫂伝馬じゃあ舵は大櫂が受け持つが、漕船じゃあ漕ぐのと舵が一緒じゃけん。 じゃけえ艢の漕ぎ手は、一番の経験者が押す事になっとる』

***

『この船は、新造する時に少し大きゅうしてもろうた』 『子供らがこの船の上で舞うんじゃが、安定性がないと危ない。 それに、御座船を引っ張る役目が有るが、ある程度重量があった方が、御座船を引っ張る時にスピードが乗るんよ』
『一艘だけで漕ぐ時には軽い船の方が速いが、他の船を引っ張る時には、重い方が船足がのる』 『なるほど!』

組合長さんから、地元の貴重な御漕船のお話を聞かせていただいた、とても興味深く、かつ至福の一時。
帰りには、事務の方から『阿賀の御漕船』に関する資料のコピーをいただいた。

*** 以下、その資料から抜粋 ***

厳島神社最大の祭『管絃祭』は、毎年旧暦の六月十七日に行われます。 美しく飾られた御座船が、雅楽を演奏しながら三隻の漕船にひかれていく華麗で豪快な海の祭典『管絃祭』は、日本の三大船祭りの一つにもなっています。
そして、その祭りの花形の漕船の二隻を受け持つのは、必ず阿賀の町の船と決まっているのです。
(中略)
三百年の間には大きな戦争が何度もありました。 阿賀の町に爆弾が落ちた事もあったのです。 祭りには多くの費用がかかるのに、その日の食べ物に困る時代もありました。 祭りの時は何日も仕事を休まなくてはいけません。 櫓が漕げる人が減ってきているという問題もあります。 しかし、阿賀の人々は、知恵を出し合い、力を合わせて、困難を乗り切り御漕船を出し続けてきたのです。

御漕船は長さ約10.3メートル。 昔ながらの和船です。 エンジンはありません。 約5.8メートルの櫓、六丁で漕ぎます。
(中略)
阿賀の漁師の家に育った女の人は、『子供が産まれたら采振をさせたい』と思うそうです。
采振をした子は、『十五、六才になったら、水夫になって櫓を漕ごう』と考えるそうです。
こうして御漕船の役目は代々受け継がれ、今では『阿賀の御漕船が来なければ管絃祭が始まらない』とまで言われるようになっているのです。
今年も再来年も、阿賀の町からは、宮島へ、二隻の御漕船がはなやかに出発していくことでしょう。

*** 引用終わり ****

まさにここに書いてある事こそが、海洋文化の伝承であり、次世代を担う若手の育成そのものではないだろうか!

初めて詳しいお話を伺うことができた地元阿賀の御漕船、そして縁あって関わる事になった大崎上島の旅する櫂伝馬プロジェクト。 なんだか今年はワクワクする事が多い。 ほんとうに楽しみだなあ!

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