『瀬戸内横断その2・更に東へ西へ、岡山県玉野市まで&山口県大島町まで』
【岡山県笠岡市から岡山県玉野市まで】
2001年2月10日、JRで再び岡山県笠岡(かさおか)を訪れた。 渡船で渡った白石島の浜で船を組み立て、南東に向けて漕ぎ出す。
今回は、笠岡諸島から塩飽(しわく)諸島を回り、中間の大きな節目となる“瀬戸大橋”を越えて岡山県の玉野市まで2日で漕ぐ予定。
船を組み、冬の冷たい向かい風の中を北木(きたぎ)島を越え、小手(こて)島の南をかすめて、ようやく香川県の広島付近まで来た。 その南側は航路で大型船がひっきりなしに行き交い、複雑な引き波にカヤックが翻弄される。
日没が近づいたことと、風が強まり体が冷えてきたこともあり、広島の南岸にある海水浴場に上陸。 海水浴場の片隅にひっそりとテントを張り、震えながらウエットスーツを着替える。
夜、偶然ラジオを聞いていると、その日に起きた「えひめ丸」のハワイでの事故を伝えていた。 目の前は四国。 繰り返されるニュースに、地元の緊張が伝わってきた。
朝起きて、食事の準備をしていると、散歩している地元のおじさんに「ここで寝たのか、寒かったろう」と話し掛けられ、「朝起きたらテントの内側に薄く氷が張っていて驚きました」と答える。 これから瀬戸大橋を越え、玉野まで行くことを話し、冷たいウエットスーツに着替えて出艇。
ここからは下津井(しもつい)に向けて一旦北上し、念願の瀬戸大橋越え。 幸い船舶も少なく、潮流も思ったより弱いようだ。 中型の貨物船をやりすごし、無事に瀬戸大橋の真下に到達して記念撮影した、と思ったらいきなり進まなくなった!
前を見ると、海水が大河の如くとうとうと流れてくる。 白波が立っているわけではないのに凄いパワー。 漕いでも漕いでもじりじりと押し返され、たまらずUターンして橋脚の裏側に逃げた。
ところが、そこでは小さいながら渦ができており、スターンが引き込まれる初めての経験。 こういう時にソロは心細い。 落ち着いたところで、川で遊んでいた頃のことを思い出し、本州側にフェリーグライドで渡る。
さすがに瀬戸大橋はすんなりとは通してくれなかったが、瀬戸内横断の一つの関門であった瀬戸大橋越えを無事クリア! 玉野市に入ると向い風が強くなってきた。
直島を越え、出崎半島の付け根にある小さな浜に船を上げた。
***
【広島県倉橋町から山口県大島町まで】
今回は、山口県の屋代(やしろ)島・通称大島までの島渡りだ。
2001年5月25日、有休を取り、前回船を上げた倉橋町の桂ヶ浜(かつらがはま)までバスで移動。 舟を組み、一息ついて漕ぎ出す。
黒島を通過し、2時間ほどで柱(はしら)島に到達。 柱島は、屋代島まで渡る途中で唯一の有人島なので、ここで食料やビールを買出しする。 小さい港の隅っこに係留させてもらい、島のメインストリートを散策。民宿も多く、夏に海水浴に来たら楽しめそうだ。小さい商店で買ったパンで昼食を済ませ、再び出発する。
ここからは、小さな島が連続する。 柱島は、戦艦陸奥(むつ)が謎の沈没をした所で、その南の続島(つづきしま)は犠牲者を荼毘に付した島。
さらに南下し、長島のゴロタ石の浜でしばし休憩。 この先は島が切れ、山口県岩国市と愛媛県松山市とを結ぶ大型フェリーの航路になるので要注意。 大型船を気にして常に左右を見ながら、屋代島までの最短コースを漕ぎ渡る。
屋代島の厨子ヶ浜(ずしがはま)に到着。 まだ日は高いが、快適そうな海水浴場なので、ここでキャンプすることに。テントを張っていると、散歩をしていた地元のおじさんに話し掛けられた。
どこから来たのか?このフネはいくら位するのか?など興味津々で質問攻め。 最後は、学生かとの質問に苦笑する。
どう見ても私自身いい年をしたオヤジなのだが、平日にカヤック漕いでの一人旅で、塩にまみれてテント泊など、若い貧乏学生位しかしないだろうというのが一般的な感覚なのかも。
翌朝は、屋代島の岸沿いではなく、大島大橋に向う最短距離となる浮(うか)島に向けて直進。 浮島と頭(かしら)島の間にある狭い水路を抜け、穏やかな海を大畠瀬戸に向かう。
昼頃には大島大橋の手前の漁港に着き、そこで作業をしていた人に断ってスロープに船を上げさせてもらう。 船を畳み、背中にK-1、両手にはキャンプ道具が詰まった大きな防水バッグとパドルケースという姿でヨタヨタと歩いていたら、夫婦が乗った車が止まって声を掛けてくれた。
JR大畠駅まで行くのだと言うと、乗っていけということになり、遠慮無く乗せてもらう。 車中では、大きな荷物を持っていたので見兼ねて声を掛けていただいた事を聞き、私からは、広島県の呉市から漕いできたこと、大きな荷物はカヤックであり、これで瀬戸内横断を目指していることなどを話した。
大島大橋を越えて、JR大畠駅で降ろしていただき、礼を言って別れた。親切が身に沁みた。
その後、横浜の研究所に単身赴任することとなり、瀬戸内横断は、帰任まで一時中断となった。
次回は帰任後に再開し、様々な出会いがあった思い出の東側ゴールとなる、兵庫県家島(いえしま)までの旅を報告します。
【岡山県笠岡市から岡山県玉野市まで】
2001年2月10日、JRで再び岡山県笠岡(かさおか)を訪れた。 渡船で渡った白石島の浜で船を組み立て、南東に向けて漕ぎ出す。
今回は、笠岡諸島から塩飽(しわく)諸島を回り、中間の大きな節目となる“瀬戸大橋”を越えて岡山県の玉野市まで2日で漕ぐ予定。
船を組み、冬の冷たい向かい風の中を北木(きたぎ)島を越え、小手(こて)島の南をかすめて、ようやく香川県の広島付近まで来た。 その南側は航路で大型船がひっきりなしに行き交い、複雑な引き波にカヤックが翻弄される。
日没が近づいたことと、風が強まり体が冷えてきたこともあり、広島の南岸にある海水浴場に上陸。 海水浴場の片隅にひっそりとテントを張り、震えながらウエットスーツを着替える。
夜、偶然ラジオを聞いていると、その日に起きた「えひめ丸」のハワイでの事故を伝えていた。 目の前は四国。 繰り返されるニュースに、地元の緊張が伝わってきた。
朝起きて、食事の準備をしていると、散歩している地元のおじさんに「ここで寝たのか、寒かったろう」と話し掛けられ、「朝起きたらテントの内側に薄く氷が張っていて驚きました」と答える。 これから瀬戸大橋を越え、玉野まで行くことを話し、冷たいウエットスーツに着替えて出艇。
ここからは下津井(しもつい)に向けて一旦北上し、念願の瀬戸大橋越え。 幸い船舶も少なく、潮流も思ったより弱いようだ。 中型の貨物船をやりすごし、無事に瀬戸大橋の真下に到達して記念撮影した、と思ったらいきなり進まなくなった!
前を見ると、海水が大河の如くとうとうと流れてくる。 白波が立っているわけではないのに凄いパワー。 漕いでも漕いでもじりじりと押し返され、たまらずUターンして橋脚の裏側に逃げた。
ところが、そこでは小さいながら渦ができており、スターンが引き込まれる初めての経験。 こういう時にソロは心細い。 落ち着いたところで、川で遊んでいた頃のことを思い出し、本州側にフェリーグライドで渡る。
さすがに瀬戸大橋はすんなりとは通してくれなかったが、瀬戸内横断の一つの関門であった瀬戸大橋越えを無事クリア! 玉野市に入ると向い風が強くなってきた。
直島を越え、出崎半島の付け根にある小さな浜に船を上げた。
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【広島県倉橋町から山口県大島町まで】
今回は、山口県の屋代(やしろ)島・通称大島までの島渡りだ。
2001年5月25日、有休を取り、前回船を上げた倉橋町の桂ヶ浜(かつらがはま)までバスで移動。 舟を組み、一息ついて漕ぎ出す。
黒島を通過し、2時間ほどで柱(はしら)島に到達。 柱島は、屋代島まで渡る途中で唯一の有人島なので、ここで食料やビールを買出しする。 小さい港の隅っこに係留させてもらい、島のメインストリートを散策。民宿も多く、夏に海水浴に来たら楽しめそうだ。小さい商店で買ったパンで昼食を済ませ、再び出発する。
ここからは、小さな島が連続する。 柱島は、戦艦陸奥(むつ)が謎の沈没をした所で、その南の続島(つづきしま)は犠牲者を荼毘に付した島。
さらに南下し、長島のゴロタ石の浜でしばし休憩。 この先は島が切れ、山口県岩国市と愛媛県松山市とを結ぶ大型フェリーの航路になるので要注意。 大型船を気にして常に左右を見ながら、屋代島までの最短コースを漕ぎ渡る。
屋代島の厨子ヶ浜(ずしがはま)に到着。 まだ日は高いが、快適そうな海水浴場なので、ここでキャンプすることに。テントを張っていると、散歩をしていた地元のおじさんに話し掛けられた。
どこから来たのか?このフネはいくら位するのか?など興味津々で質問攻め。 最後は、学生かとの質問に苦笑する。
どう見ても私自身いい年をしたオヤジなのだが、平日にカヤック漕いでの一人旅で、塩にまみれてテント泊など、若い貧乏学生位しかしないだろうというのが一般的な感覚なのかも。
翌朝は、屋代島の岸沿いではなく、大島大橋に向う最短距離となる浮(うか)島に向けて直進。 浮島と頭(かしら)島の間にある狭い水路を抜け、穏やかな海を大畠瀬戸に向かう。
昼頃には大島大橋の手前の漁港に着き、そこで作業をしていた人に断ってスロープに船を上げさせてもらう。 船を畳み、背中にK-1、両手にはキャンプ道具が詰まった大きな防水バッグとパドルケースという姿でヨタヨタと歩いていたら、夫婦が乗った車が止まって声を掛けてくれた。
JR大畠駅まで行くのだと言うと、乗っていけということになり、遠慮無く乗せてもらう。 車中では、大きな荷物を持っていたので見兼ねて声を掛けていただいた事を聞き、私からは、広島県の呉市から漕いできたこと、大きな荷物はカヤックであり、これで瀬戸内横断を目指していることなどを話した。
大島大橋を越えて、JR大畠駅で降ろしていただき、礼を言って別れた。親切が身に沁みた。
その後、横浜の研究所に単身赴任することとなり、瀬戸内横断は、帰任まで一時中断となった。
次回は帰任後に再開し、様々な出会いがあった思い出の東側ゴールとなる、兵庫県家島(いえしま)までの旅を報告します。