11月22日は、映画「魚になる夢を見た」の試写会に行って来ました。
ミルクセーキOGである宇佐美彩乃さんがメインキャストで、長崎出身で慶應義塾大学の中村星太さんが監督を務め、舞台も長崎という作品。
撮影現場にも一度立ち合わせていただきました。
そのときの模様はこちら。
細やかながら映画のクラウドファンディングにも参加させてもらい、試写会にも行くことが出来ました。
会場は長崎県美術館。
会場にはミルクセーキやシェイキーも駆けつけました。
上映中は、宇佐美彩乃(あやのん)の演技やミルクセーキがどこに出てくるのかというところが気になりつつ、作品自体も楽しめました。
長崎市の観光通りや中通り、築町商店街、駅前商店街、水辺の森公園などが舞台として登場し、日常の街並みが舞台となっていて嬉しかったです。
所々、台詞が聞き取りづらいところがあって、そこは意図的なのか機材的な限界なのかわかりませんが、そこだけ少し残念でしたが。
エンドロールでは、出演した絢優ちゃんや、あやのんやミルクセーキを推しているヲタクの皆さんの名前が掲載。
私も「しげぺん」で出していただきました(笑)。
人生何があるかわかりません。ありがとうございます。
上映後は中村星太さんと脚本の緑川夢さんによるトークショー。
少しの時間でしたが、撮影秘話などが聞けました。
それを踏まえた上で、作品について私が感じたことを書かせていただきたいと思います。
※ここから先は所謂ネタバレを含みます。知りたくない方は読まないでください。
主人公は4人の若い男女。大学生くらいの年齢でしょうか。
顕良“アキラ”(演・サトウヒロキさん)
将斗(演・上田一成さん)
栞(演・青井遥さん)
京子(宇佐美彩乃さん)
冒頭から画面が暗い時間が続きます。
顕良の、花屋の仕事も恋愛も受け身。ただただ淡々と毎日を過ごしている姿。
将斗の、バイトも無気力で続かず、顕良と付き合っている栞と浮気はするけど、日々何がしたいのかわからずモヤモヤする姿。
栞の、ただ平和な日々を掴みたいだけなのに上手くいかない姿。
京子の、本当は顕良のことが気になる?のに行動出来ず、お洒落してアピールするしかない姿。
4人のその鬱屈とした日々を暗い画面が象徴していたように思います。
そこから感じたのは、「こうしたいからこうする」という「動機を持って意志表示をすることが出来ない」ということです。
なぜかというと、「傷つきたくないから」あるいは「表示する方法がわからないから」。
「雨に濡れるのが嫌で、
突然あなたが泣き出すのが嫌で、
もうすぐ大人になってしまうのが嫌で、
私は魚になった」
という詩が冒頭に読み上げられます。
もうひとつトークショーで脚本の緑川さんが語ってらっしゃったのが「魚は体が傷ついても痛みを感じることなく、そのまま泳ぐそうです」という話。
ここから感じるのは、「ただ傷つかず平和に自由に過ごしていたいという欲求」です。
4人ともそれぞれにそれに似た感情がある。魚になりたい。
私はもうアラフォーですが、20代の頃は傷つきたくないし、メリットを感じないことはやりたくないなんて思っていたので、少しはわかるかもしれません。いやなことを先に想像してしまって諦めちゃうんですよね。
しかし、平和に過ごすためには、現実には何もしないでいてもだめだということを示唆するワードが劇中にはいくつも登場します。「自分から動けよ」「何もしなきゃ失う」「平和ボケ」「平和は勝ち取るもの」。
それがなければ金魚鉢の金魚(顕良の部屋にある金魚鉢)。
そして、栞の「将斗と、平和に過ごしていたいんだ」という叫びに、ラストで将斗は彼女のために朝食を作り、顕良は「僕は京子と過ごしていたいな。明日も、あさっても」と、劇中で初めて意志表示をする。
この人と平和に過ごしていたいという動機を持ち意志表示をするというところで物語は終わります。
私にはそのことがこの作品に込められた光だと感じられました。小さなことですが、「そういうことの積み重ねから平和は勝ち取れるのではないか?」と言われているように感じましたし、とても共感出来ました。
そして、真にそれが海原を自由に泳ぐ魚になるということではないかと。それについてはそうと解釈出来るはっきりした場面はないのですが、劇中の画面が暗い時間の長さと対称的に、海が登場するシーンでは画面が明るく美しい音楽が流れていました。
魚になるということが単に逃避的な意味ではなく、その大きな海で力強く泳ぐような魚になるという意味でも使われているのかなと感じた次第です。
あくまでも、表現されていることを想像して解釈したことですが、一度拝見して私が感じ考えたのはそういうことでした。
勿論、これが正しいとかそういう話ではありません。
もう一度観たら違うことにも目が行くかもしれませんし、考えがグルグル回ってしまうほど考えさせられました。また観たいと思わせてくれる作品だと思います。
もっと知られて、また観る機会があればいいな。
以上です。
この作品にほんの少しでも関わることが出来たことをスタッフの皆さん、演者の皆さんに感謝申し上げます。
ありがとうございました!
ミルクセーキOGである宇佐美彩乃さんがメインキャストで、長崎出身で慶應義塾大学の中村星太さんが監督を務め、舞台も長崎という作品。
撮影現場にも一度立ち合わせていただきました。
そのときの模様はこちら。
細やかながら映画のクラウドファンディングにも参加させてもらい、試写会にも行くことが出来ました。
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上映中は、宇佐美彩乃(あやのん)の演技やミルクセーキがどこに出てくるのかというところが気になりつつ、作品自体も楽しめました。
長崎市の観光通りや中通り、築町商店街、駅前商店街、水辺の森公園などが舞台として登場し、日常の街並みが舞台となっていて嬉しかったです。
所々、台詞が聞き取りづらいところがあって、そこは意図的なのか機材的な限界なのかわかりませんが、そこだけ少し残念でしたが。
エンドロールでは、出演した絢優ちゃんや、あやのんやミルクセーキを推しているヲタクの皆さんの名前が掲載。
私も「しげぺん」で出していただきました(笑)。
人生何があるかわかりません。ありがとうございます。
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少しの時間でしたが、撮影秘話などが聞けました。
それを踏まえた上で、作品について私が感じたことを書かせていただきたいと思います。
※ここから先は所謂ネタバレを含みます。知りたくない方は読まないでください。
主人公は4人の若い男女。大学生くらいの年齢でしょうか。
顕良“アキラ”(演・サトウヒロキさん)
将斗(演・上田一成さん)
栞(演・青井遥さん)
京子(宇佐美彩乃さん)
冒頭から画面が暗い時間が続きます。
顕良の、花屋の仕事も恋愛も受け身。ただただ淡々と毎日を過ごしている姿。
将斗の、バイトも無気力で続かず、顕良と付き合っている栞と浮気はするけど、日々何がしたいのかわからずモヤモヤする姿。
栞の、ただ平和な日々を掴みたいだけなのに上手くいかない姿。
京子の、本当は顕良のことが気になる?のに行動出来ず、お洒落してアピールするしかない姿。
4人のその鬱屈とした日々を暗い画面が象徴していたように思います。
そこから感じたのは、「こうしたいからこうする」という「動機を持って意志表示をすることが出来ない」ということです。
なぜかというと、「傷つきたくないから」あるいは「表示する方法がわからないから」。
「雨に濡れるのが嫌で、
突然あなたが泣き出すのが嫌で、
もうすぐ大人になってしまうのが嫌で、
私は魚になった」
という詩が冒頭に読み上げられます。
もうひとつトークショーで脚本の緑川さんが語ってらっしゃったのが「魚は体が傷ついても痛みを感じることなく、そのまま泳ぐそうです」という話。
ここから感じるのは、「ただ傷つかず平和に自由に過ごしていたいという欲求」です。
4人ともそれぞれにそれに似た感情がある。魚になりたい。
私はもうアラフォーですが、20代の頃は傷つきたくないし、メリットを感じないことはやりたくないなんて思っていたので、少しはわかるかもしれません。いやなことを先に想像してしまって諦めちゃうんですよね。
しかし、平和に過ごすためには、現実には何もしないでいてもだめだということを示唆するワードが劇中にはいくつも登場します。「自分から動けよ」「何もしなきゃ失う」「平和ボケ」「平和は勝ち取るもの」。
それがなければ金魚鉢の金魚(顕良の部屋にある金魚鉢)。
そして、栞の「将斗と、平和に過ごしていたいんだ」という叫びに、ラストで将斗は彼女のために朝食を作り、顕良は「僕は京子と過ごしていたいな。明日も、あさっても」と、劇中で初めて意志表示をする。
この人と平和に過ごしていたいという動機を持ち意志表示をするというところで物語は終わります。
私にはそのことがこの作品に込められた光だと感じられました。小さなことですが、「そういうことの積み重ねから平和は勝ち取れるのではないか?」と言われているように感じましたし、とても共感出来ました。
そして、真にそれが海原を自由に泳ぐ魚になるということではないかと。それについてはそうと解釈出来るはっきりした場面はないのですが、劇中の画面が暗い時間の長さと対称的に、海が登場するシーンでは画面が明るく美しい音楽が流れていました。
魚になるということが単に逃避的な意味ではなく、その大きな海で力強く泳ぐような魚になるという意味でも使われているのかなと感じた次第です。
あくまでも、表現されていることを想像して解釈したことですが、一度拝見して私が感じ考えたのはそういうことでした。
勿論、これが正しいとかそういう話ではありません。
もう一度観たら違うことにも目が行くかもしれませんし、考えがグルグル回ってしまうほど考えさせられました。また観たいと思わせてくれる作品だと思います。
もっと知られて、また観る機会があればいいな。
以上です。
この作品にほんの少しでも関わることが出来たことをスタッフの皆さん、演者の皆さんに感謝申し上げます。
ありがとうございました!
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