というわけで、沢木耕太郎『流星ひとつ』(新潮社、2013年)を読んでみました。
(目次)
□一杯目の火酒
□二杯目の火酒
□三杯目の火酒
□四杯目の火酒
□五杯目の火酒
□六杯目の火酒
■七杯目の火酒
□最後の火酒
□後記
七杯目の火酒
1
__どうしよう。
「えっ?」
__もう一杯もらったりすると、あなたは危険水域に突入しちゃうかな。
「ああ、お酒?」
__うん。
「ぜんぜん平気だから、もう一杯もらいたいな」
__そうしようか。
「なんだか、 とてもいい気分」
__こっちも、同じような気分になってきたんだけど、職務に忠実にならないといけないので、インタヴューを続けます。
「インタヴューなんて、もうどうでもいいのに……」
__えーと、あなたの年収がいくらあるんだか、4000万なのか5000万なのか、よくは知らないけど……年収だけじゃなくて、すごく大きな金を動かしているんですよね、あなた……というか、あなたたちは。
「うん」
__営業、とはよく言ったけど、あなたが十日も歌えば、すぐ千万の単位は突破しちゃうわけじゃないですか。あなたがひとり歌うだけで事務所の人が何人喰えることになるんだろう。5人? それとも10人?
「最低でも10人くらいは、ね」
__年商にすれば数億の売り上げがあるわけだからね。すごいなあ、まったく。
「うん……」
__あなた個人としては、どのくらいの金を使ってるの?
「どのくらい、って?」
__1日でも1ヵ月でもいいから、あなたが使う額。
「そうだなあ……あればあるだけ使っちゃうから……お母さんから必要なときだけ受け取るようにしているけど……昔は百万くらい使ってた、1ヵ月に」
__そいつは豪儀だ。
「みんなと遊んでいても、相手に払わせるのは悪いから、あたしが払うようにしていたし」
__相手が男でも?
「うん。みんな、年収はあたしより少ないだろうから、悪いじゃない、払わせちゃったら」
__そういうもんでもないような気がするけど。で、いまは?
「少なくなった」
__これからにそなえて倹約してるわけ?
「そういうわけじゃないけど……前の3分の1か4分の1くらい……」
__それはいい傾向じゃないですか。それで足りるようになった?
「うん。あたしはね、財布に1万円あれば1万円使うし、100円しかなければ100円でいいの」
__あっ、それは、ぼくと同じだ。
「だからね、あたしは、お金がなければないでどうにでもやっていけるし、いまから倹約なんかしてるつもりはないんだけど……なんか、使う気がしなくなっちゃった」
__お金なんて、あるときに使えばいいし、なければないでいいしね。
「そうだね。あたしもそう思う」
__金なんていらないさ。
「うーん。いらないとまでは思わないけどな……」
__いらないよ、金なんて。
「なければないでいいけど、あればあるにこしたことはないよ」
__金なんか、体が健康ならどうにでもなるさ。
「そうでもないよ。みんな、必要なときになくて困っているじゃない」
__いや、金なんかいらないのさ。金はあるにこしたことはないなんていうけど、ぼくはそうじゃないと思う。金はないにこしたことはない。
「そんなことないよ」
__金がなければ、そしてどうしても必要だったら、人に借りればいい。金があれば、人に回してあげればいい。金なんて、それだけのものさ。
「世の中って、そんな簡単なものじゃないと思うよ、あたしは」
__ぼくにとっては、そんなふうに簡単だった。
「それは恵まれていたからだよ。きっと沢木さんが恵まれすぎていたんだよ。金の貸し借りなんて、そんなにうまくいくもんじゃないよ」
__もちろんさ。借りたら必ず返す、でも貸したらそれはあげたものと思う。そうでなければ、うまくなんかいかないよね。もちろん、あなたの言うとおり、そんなにうまくはいかない。でも、ぼくにとっては、金なんて……。
「あたしはね、もう絶対、人にお金を貸すのはいやなんだ。借りる気もないけど、貸す気もないんだ」
__そうか、いやか……あっ、そう言っても、別にあなたから金を借りようとしているなんて、思わないでくださいね。
「フフフッ、そんなこと思うわけないじゃない。でもね、あたし、いやなんだ。いままで、ほんとに何十人の人に貸してあげたかわからないんだ。全部を合計すれば一千万を超すと思う」
__一千万!
「それ以上になると思う。30万という人もいれば、300万という人もいたからね。うちは女所帯で男がいないから、頼みに来やすいのかもしれないんだ。相手の人が可哀そうだからって、何人も何人も貸してあげていたけど……返しに来たのは、たったひとりだよ」
__ひとりだけ?
「そう、15万円くらい貸してあげた人かな。それ以外は誰も返しに来ない。10万くらい借りて、一度返して、次に50万借りていった人がいたけど、それっきり。そういう人ばっかしだよ、世の中の人なんて」
__返してもらえばいいじゃないですか……その、300万も貸した人なんかには。
「うん、一度だけ、請求したことがあるんだよ。そうしたら、開き直られたの。うちには払える金なんてないんですから一銭も払えません、訴えるんなら裁判所にでもどこにでも出ますから、勝手にやってください、ってさ」
__あなたの仕事の性格から……人気稼業だから、訴えっこないとタカをくくっているわけだ。
「そうなの。一度そう言われていやになっちゃったんだ。信用して貸した人にそんなふうに言われるのはいやだからね」
__そんな人を信用するから……。
「そうなんだ。その人がいけないんじゃないんだよ。あたしたちがいけないんだ。だからね、いまでは、もう借りにこられても、貸さないことにしてるの。そうやって、人と人の関係が変になって、壊れるのはいやだからって。でも、そう言って断った人の方が、むしろ永く続いているね、やっぱり」
__しかし……。
「沢木さんは、甘いんだと思う。幸せな人生を送ってきたから、そんなことを言うんだよ。世の中の人は、もっといやらしくて、汚ないよ。借りる人だって、そんな切羽詰った人なんて、いやしないんだ。いまの世の中で、明日のお米代に困るなんて家は、もうあまりないんだから。借りるときは悲愴な顔つきをして来るけど、返すときになると惜しくなるんだ。自分たちは、結構、小さな贅沢をしているくせに、ね。無理はないのかな。返すときになると、タダで持っていかれるような気がするんだろうからね。返せと言われると、まるで泥棒に金を出せと言われているような気がするんだ、きっと」
__そうかもしれないけど……。
「あたしだったら、借りたら、その日から気になって仕方ないと思うんだ。だから借りない。借りないかわりに、貸しもしない。それでいいでしょ?」
__悪くはないけどね。あなたの周囲にいた人は、金を借りたというより、タカリに成功したと思ってるんじゃないかな。だから返そうとしないんだよ。あなたの周辺がまっとうな社会じゃなかった、というか、極端な社会だった。それだけのことではないのかな。それだけで世間一般を決めつけるのはよくないよ。ぼくは借金しても返したし、貸した金は返してもらったしね。ただし、額はそんなにでかくなかったけど。
「そっちの方が変ってるんだよ」
__そうじゃないと思うよ。
「そうかなあ……」
__そうさ。もちろん、借りないし貸さないっていうのは正しいと思う。でも、どうせ人なんて、とかいうふうに人間を簡単にくくってほしくないような気がするんだ。あなたの属していた世界が、異常だったというだけのことかもしれないじゃないか。
「そうかもしれない。でも、金はないにこしたことはないっていうのは、間違っていると思うよ、あたしはそれこそ、極端すぎるよ」
__そう……少し、そういうとこはあるかな。しかし、ぼくの理想は、あまり金がないけど、稼ごうと思えばいくらかは稼げるし、急に必要なときは友人に借りられる、という状態なんだ。そのためには、金のかからない、つましい生活をいつでもしてなければならないんだけどね。その状態っていうのは、金なんかなければないほどいいんだ。五体満足で健康でありさえすれば、ね。貸し借りといったって、ほんの1、2万でいいような……そんな規模の生活をしていれば、それはそんなにむずかしいことじゃないと思うんだ。
「ふーん。それは、そうだね。ほんとに、そんな生活ができたら、ね」
__できるさ。少なくとも、ぼくはしてきたけどな、いままで。
「へえ……すごいなあ」
__すごくもなんともないよ。昔、みんな貧乏で、うちも例外じゃなかったけど、結構、やろうと思えば、楽しく生きられたからさ。要するに、ぼくは、金を沢山持って楽しく生きる方法を知らないだけなんだよ。だから、いつも、ほどほどの収入で生きられるくらいの仕事しかしないんだ。
「いいなあ、そういうの」
【解説】
「沢木さんは、甘いんだと思う。幸せな人生を送ってきたから、そんなことを言うんだよ。世の中の人は、もっといやらしくて、汚ないよ。借りる人だって、そんな切羽詰った人なんて、いやしないんだ。……借りるときは悲愴な顔つきをして来るけど、返すときになると惜しくなるんだ。自分たちは、結構、小さな贅沢をしているくせに、ね。無理はないのかな。返すときになると、タダで持っていかれるような気がするんだろうからね。返せと言われると、まるで泥棒に金を出せと言われているような気がするんだ、きっと」
実感がこもっている言葉ですね。
創価学会の指導で「会員間の金銭貸借は禁止」というのがありましたが、お金の貸し借りは、やはり良くないですね。
人間関係を壊します。
獅子風蓮