獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

石橋湛山の生涯(その57)

2024-09-03 01:27:15 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
■第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき


第7章 政界

(つづきです)

昭和21年(1946)3月16日、湛山は社員総会を招集した。
「私は自分の主義主張を生きたものにしたいために、政界への転身を図ることにしました。私が実際に政界に飛び出していってもどれほどのことが出来るかは不明です。おそらく失望することが多いと思いますが。……それでもあえて出ていくのは」
評論を実現したい、の一事である。湛山は言う。
「政治の第一線に出て、国家、国民のために微力でも尽くす必要を感じたのです」
湛山は、自分のプランが自由党の政策綱領に影響を与え、誰かが実際の政治に実現、反映させてくれればいい、それだけしか頭になかった。
「今すぐに日本経済に効力のある手段を取らねばなりません。これが私の選挙出馬の理由です。新報で論じて影響を待つというのでは遅いのです。皆さん、理解してください」
すでに湛山は鳩山の要請を受けて、自由党の顧問に就任していた。
「しかし石橋さん、選挙は来月の10日ですよ。いくら何でも立候補が遅すぎませんか」
周囲が危惧したとおりに、湛山は東京二区(大選挙区。現在の品川、大田、目黒、世田谷、渋谷、中野、杉並と新宿の一部、さらに三多摩。定員12人)に自由党公認として立候補した。61歳での国政出馬であった。
選挙の立会演説会で湛山が登壇すると、共産党を支持する聴衆が激しい野次を飛ばした。 湛山はマイクを握ったが、しゃべれないほどのひどさであった。
すると、次の順番にいた共産党の徳田球一が突然立って、湛山の傍らに来た。湛山の持つマイク口を寄せて、語りかけた。
「諸君、徳田です。静粛に聞いてください。私は獄中に18年間いました。その間ずっと『東洋経済新報』を愛読していました。こうして出所してすぐに政治活動が出来るのも『東洋経済新報』のお陰です。その『東洋経済新報』を戦時中も軍部に屈せずに作っていた社長が、今ここにおられる石橋湛山先生なのです。演説をお聞きください。私も石橋先生のお話を聞きたい」
聴衆は、急に静まり返った。
しかし選挙結果は、28044票で20位。落選であった。
それでも湛山はいつものように淡々として東洋経済新報社に出社し、その後は自由党本部に顔を出して幹部と会談した。多分、当選していても同じことをしていたであろう。その後、招かれて鳩山の私邸に行った湛山を待っていたのは、「大蔵大臣を」という要請だった。湛山は驚いたが、それを顔にも出さず、
「さっき依頼された『新内閣の緊急財政経済政策』を徹夜で仕上げねばなりませんから、これで」と、軽く頭を下げて辞した。ところが数日後、異変が起きた。

(つづく)


解説

湛山は東京二区……に自由党公認として立候補した。61歳での国政出馬であった。

しかし、選挙まで時間がなかったため、湛山は落選してしまいます。

 

獅子風蓮



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