獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

佐藤優『国家の罠』その14

2025-01-28 01:56:55 | 佐藤優

佐藤優氏を知るために、初期の著作を読んでみました。

まずは、この本です。

佐藤優『国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて』

ロシア外交、北方領土をめぐるスキャンダルとして政官界を震撼させた「鈴木宗男事件」。その“断罪”の背後では、国家の大規模な路線転換が絶対矛盾を抱えながら進んでいた―。外務省きっての情報のプロとして対ロ交渉の最前線を支えていた著者が、逮捕後の検察との息詰まる応酬を再現して「国策捜査」の真相を明かす。執筆活動を続けることの新たな決意を記す文庫版あとがきを加え刊行。

国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて
□序 章 「わが家」にて
□第1章 逮捕前夜
□第2章 田中眞紀子と鈴木宗男の闘い
 □「小泉内閣生みの母」
 □日露関係の経緯
 □外務省、冷戦後の潮流
 □「スクール」と「マフィア」
 □「ロシアスクール」内紛の構図
 □国益にいちばん害を与える外交官とは
 ■戦闘開始
 □田中眞紀子はヒトラー、鈴木宗男はスターリン
 □外務省の組織崩壊
 □休戦協定の手土産
 □外務官僚の面従腹背
 □「9・11事件」で再始動
 □眞紀子外相の致命的な失言
 □警告
 □森・プーチン会談の舞台裏で
 □NGO出席問題の真相
 □モスクワの涙
 □外交官生命の終わり
□第3章 作られた疑惑
□第4章 「国策捜査」開始
□第5章 「時代のけじめ」としての「国策捜査」
□第6章 獄中から保釈、そして裁判闘争へ
□あとがき
□文庫版あとがき――国内亡命者として
※文中に登場する人物の肩書きは、特に説明のないかぎり当時のものです。

 


戦闘開始

小泉政権が発足した直後、2001年のゴールデンウィーク中のことだ。田中女史が上高地の別荘にいる小寺氏に電話をかけた際、小寺氏は鈴木宗男氏と東郷局長、佐藤にかなりひどい目に遭わされたということを訴えたという話が、新聞記者を通じて私の耳に入ってきた。私はまた小寺氏がやってるのかと思い、軽く受け流した。
3月にロシア課長から英国公使へ異動の発令を受けていた小寺氏は、5月7日にロンドンに赴任するために成田空港を飛び立った。その日の夕刻、まだ小寺氏がロンドンに着く前に、ある情報ブローカーが私との面会を強く求めてきたので、都内某所で密会した。
情報ブローカーは、「田中眞紀子が小寺をロンドンから呼び戻すことにした。再びロシア課長に戻す人事を強行し、鈴木宗男を挑発するつもりだ。これはハプニングでも何でもなく田中と小寺の間のデキレースだと思う。次はあなたをアフリカか砂漠の国に追い出すことを考えている。十分注意した方がよい」と伝えてきた。
深夜になって、今度は親しい新聞記者から電話がかかってきた。
「杉浦正健(せいけん)外務副大臣が、夜のオフレコ懇談で、田中大臣が、自分が知らない内に小寺前ロシア課長がイギリスに異動になったことに激怒し、小寺さんを直ちに呼び戻すことにしたと言っていた。佐藤さんのところにもワイドショーや週刊誌の取材がいくかもしれないが、余計なことは言わない方がよい」
私は記者の電話が終わるとすぐに岡野ロシア課首席事務官に情報を伝え、メディア対応について考えておいた方がよいと言った。その後、鈴木宗男氏に電話をしたが、鈴木氏は「まさか。そんなことはありえないよ」と言って私の情報を信じなかった。それから30分程して鈴木氏から電話がかかってきた。
「佐藤さん、あんたがさっき言っていた話は本当だ。とりあえずは様子を見るしかないな。小寺も突然呼び戻され、困っているんじゃないか。とにかくアンテナだけはよく張っていてくれ」という話だった。
5月9日の昼、鈴木氏は、パノフ駐日ロシア大使と昼食をとることになっていた。私も同席の予定だった。昼前に私の携帯電話が鳴った。渡邉正人ロシア課長からだった。
「至急、あなたと鈴木大臣に伝えておきたいことがあるんだけれど、どこで会えるかな」
私は「鈴木大臣は12時半にTBSビル地下のレストラン『ざくろ』で会食があり、そこに僕も同席するので、その少し前に着けばつかまえることができます」と答えた。
私は少し早く会場に行ったが、既に渡邉課長が待っていた。渡邉氏は常に沈着冷静な男であるが、この日は少し興奮していた。
「今さっき、小寺さんに会ってきた。小寺さんがこんなことを言っていたので、あなたには伝えておかなくてはならないと思って、やってきた」と前置きして話を続けた。以下は、私が渡邉氏から聞いた小寺氏の発言である。
「空港から田中大臣のところに直行した。田中大臣からは、『お疲れさま。荷物はそのままにしておいてよいと言っておいたのに、何で出かけちゃったの」という話があった。僕(小寺)の方からは、これまでにあった経緯を全て述べておいた。そして、最後に『私をロシア課長に戻すよりも、佐藤優を何とかしてください』と言うと田中大臣は『わかっているわよ』と言った。
僕としてはロシア課長に戻りたいとは思わないのだけれども、田中大臣の意向が強いので戻らざるをえない。君(渡邉)には迷惑をかけてほんとうに済まないと思っている。僕は挨拶回りをしないので、君だけでしてくれ。それから、この話は川島(裕)事務次官も飯村(豊)官房長も知っている」
渡邉氏は緊張した面もちで、「あなたに危険が迫っている。僕に何ができるかわからないが、できるだけのことはしてみる。しかし、小寺はもうあっち側に行っているので、一切の幻想をもたない方がよい」と言った。
私は自分に迫っている危険について心配するよりも、自らのリスクを省みずに正確な情報を伝えてくれた渡邉氏の勇気に感激した。
そこに鈴木宗男氏がやってきた。渡邉氏は鈴木氏に対して、私に述べたのと同じ内容を繰り返した。鈴木氏は、一言だけ、「そうか」と言った。
その時、一瞬、鈴木氏の眼が猛禽類(もうきんるい)のように光ったのを覚えている。鈴木氏は、心底、許せないと言うような事態に直面すると一瞬眼が鷹や鷲のようになる。私は鈴木氏とは十年以上、親しくしているが、その間、鈴木氏の眼が猛禽類のようになったことは、本当に数回しか見たことがない。
私はこの話を東郷局長と信頼する外務省幹部に伝えた。東郷氏は、田中眞紀子女史の矛先がとりあえず自分にではなく、私に向かうので、ちょっと安心したようだった。もう一人の外務省幹部は、「馬鹿だな小寺は。ほんとうに馬鹿だな。何でそんなことを言いふらすんだ」と言って、その後は絶句した。
私の理解では、この瞬間に鈴木氏は、田中眞紀子女史と徹底的に闘うことを決めたのである。そして、この決断が鈴木宗男氏を奈落に導いていく道につながる。
鈴木氏は、直情的な人物のように見られがちだが、実はとても慎重で、特に政治ゲームに関しては勝ち負けについて実によく計算し、勝算が7割を超えないとリスクを冒すような行動をとらないというのが、鈴木氏の行動をそばで見てきた私の分析である。
田中眞紀子女史との関係についても、いくつかジャブは打つが、正面から対決することは避けることを鈴木氏は考えていた。外交は積み重ねであり、田中女史が思いつきで何かを言っても、そう長い時間が経たないうちに行き詰まるので、外務官僚の鈴木氏への依存度が却って高まると踏んでいた。従って、対露外交についても、鈴木氏が自ら乗り出して、田中女史と対決するなどということは、全く考えていなかった。しかし、小寺氏の田中女史に対する言動を聞いてから、鈴木氏は冷徹な政治的計算を除外して、徹底的な闘いに踏み切ることにしたのだ。

 

 


解説
その時、一瞬、鈴木氏の眼が猛禽類(もうきんるい)のように光ったのを覚えている。鈴木氏は、心底、許せないと言うような事態に直面すると一瞬眼が鷹や鷲のようになる。私は鈴木氏とは十年以上、親しくしているが、その間、鈴木氏の眼が猛禽類のようになったことは、本当に数回しか見たことがない。(中略)
小寺氏の田中女史に対する言動を聞いてから、鈴木氏は冷徹な政治的計算を除外して、徹底的な闘いに踏み切ることにしたのだ。

こうして、鈴木宗男氏と田中真紀子女史の戦闘が始まりました。

 

獅子風蓮


佐藤優『国家の罠』その13

2025-01-27 01:30:05 | 佐藤優

佐藤優『国家の罠』その13  1/27
#佐藤優#国家の罠#外務省のラスプーチン#外務省#東京地検特捜部

佐藤優氏を知るために、初期の著作を読んでみました。

まずは、この本です。

佐藤優『国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて』

ロシア外交、北方領土をめぐるスキャンダルとして政官界を震撼させた「鈴木宗男事件」。その“断罪”の背後では、国家の大規模な路線転換が絶対矛盾を抱えながら進んでいた―。外務省きっての情報のプロとして対ロ交渉の最前線を支えていた著者が、逮捕後の検察との息詰まる応酬を再現して「国策捜査」の真相を明かす。執筆活動を続けることの新たな決意を記す文庫版あとがきを加え刊行。

国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて
□序 章 「わが家」にて
□第1章 逮捕前夜
□第2章 田中眞紀子と鈴木宗男の闘い
 □「小泉内閣生みの母」
 □日露関係の経緯
 □外務省、冷戦後の潮流
 □「スクール」と「マフィア」
 □「ロシアスクール」内紛の構図
 ■国益にいちばん害を与える外交官とは
 □戦闘開始
 □田中眞紀子はヒトラー、鈴木宗男はスターリン
 □外務省の組織崩壊
 □休戦協定の手土産
 □外務官僚の面従腹背
 □「9・11事件」で再始動
 □眞紀子外相の致命的な失言
 □警告
 □森・プーチン会談の舞台裏で
 □NGO出席問題の真相
 □モスクワの涙
 □外交官生命の終わり
□第3章 作られた疑惑
□第4章 「国策捜査」開始
□第5章 「時代のけじめ」としての「国策捜査」
□第6章 獄中から保釈、そして裁判闘争へ
□あとがき
□文庫版あとがき――国内亡命者として
※文中に登場する人物の肩書きは、特に説明のないかぎり当時のものです。

 


国益にいちばん害を与える外交官とは

「ロシアスクール」の親分格である丹波實大使と東郷和彦局長の小寺課長に対する評価は初めから低かった。1999年夏、丹波實氏が駐露大使に転出する壮行会を鈴木宗男氏が赤坂のイタリア・レストランで行ない、そこに私も同席した。他に同席者はいなかった。「ロシアスクール」の人物評に話が及んだ際に丹波氏は次のように述べた。
「小寺は馬鹿なんですよ。頭が悪い。僕は全然評価していません。しかし、あの辺にいる他の連中はもっとひどいんです。人材がいないんですよ。幸い、東郷がいるから、東郷がきちんと言えば小寺も言うことは聞くでしょうから何とかなります」
ちなみに丹波氏は、政治家や政治部記者の心を惹きつける独特の魅力をもっている。同時に決して政治家に対して阿るわけでもない。この席でも、鈴木氏にとって耳の痛い話もした。当時鈴木氏は内閣官房副長官をつとめ、権力の中枢にいた。
「宗さん、この機会に言っておきたいことがあります。お気に障るかもしれませんが聞いてください。まず、平和条約について、四島の日本への帰属が完全に解決されてから結ぶという基本線については絶対に譲らないでください。これは約束してください」これについて、鈴木氏は「約束する」と言った。それに続いて、丹波大使は、「前にも言いましたが、ここにいる佐藤のことなんですが、宗さんが官邸を去るときには、外務省に返してください。佐藤の将来のことも考えてあげてください」と続けた。
これに対して鈴木氏は、「俺は何も佐藤さんを勝手に使っているわけじゃないんだぞ。佐藤さんも鈴木なんかと付き合わされて、内心では迷惑しているかもしれない。国益のために佐藤さんの力が必要なんだ。しかも、来年(2000年)までに平和条約を締結するというのは、小渕政権の最大課題なんだから、そのために最も効果的に人を使うということなんだ」と答えたことで、その後、気まずい沈黙が続いた。
私が「日露平和条約のために乾杯」と音頭をとって、グラスいっぱいに注いだ赤ワインを一気飲みしたので、話題は別の方に流れた。

小寺氏の名誉のために述べておくならば、小寺氏は自らの出世だけを考え他人を蹴落とすためにさまざまな画策をするという陰謀家ではない。小寺氏には自分の美学があり、それを大切にする。いわゆる真面目な官僚であり、どろどろとした政治の世界から外交官はできるだけ距離を置いて、外務省という「水槽」の中の秩序を正しく維持する。私の見るところ、それこそが小寺氏の美学である。従って、部下に能力を超えるような困難な仕事を与えたり、長時間の残業を強いることもない。そういう意味では理想の上司だ。

東郷局長の仕事スタイルは小寺課長と対照的だ。極端な能力主義者で、能力とやる気のある者を買う。酔うと東郷氏がよく言っていたことがある。
「僕は若い頃、よく父(東郷文彦、外務事務次官、駐米大使を歴任)と言い争ったものですよ。父は僕に、『外交官には、能力があってやる気がある、能力がなくてやる気がある、能力はあるがやる気がない、能力もなくやる気もないの4カテゴリーがあるが、そのうちどのカテゴリーが国益にいちばん害を与えるかを理解しておかなくてはならない。お前はどう考えるか』とよく聞いてきたものです。
僕は、能力がなくてやる気もないのが最低と考えていたのだが、父は能力がなくてやる気があるのが、事態を紛糾させるのでいちばん悪いと考えていた。最近になって父の言うことが正しいように思えてきた。とにかく能力がないのがいちばん悪い。これだけは確かです」

外交官は、上級(I種)試験に合格したキャリアであれ、専門職試験に合格したノンキャリアであれ、そこそこプライドが高い。従って、能力差について公然と話をすることは一種のタブーである。東郷氏は人当たりが柔らかいので、はじめはなかなか気付かないが、少し洞察力のある人ならば、本質的に極端な能力主義者であることがわかる。
東郷氏自身も、英語、フランス語、ロシア語が堪能で、相当困難な交渉を通訳の助けを借りずにできるロシア語力をもつ数少ないキャリア外交官だ。しかも文学、哲学にも明るく、特にプラトンをよく読み込んでいるので、ロシアの知識人と仕事を離れたところでも楽しく付き合うことができる。私は東郷氏とモスクワで2年間共に仕事をしたが、東郷氏ほどロシアの政治・経済・学術エリートに食い込んだ外交官はいなかった。
仕事で東郷局長の要求する水準を満足させるのはたいへんだった。東郷氏からの「宿題」を処理するために、早朝、4時、5時まで仕事をし、仮眠室でちょっと横になり、午前9時半に東郷氏の執務室に完成した資料を届けたことが何度もあった。また、作業のやり直しを命じられることもしばしばだったが、東郷氏がやり直しを命じた点はいつもよいポイントを突いていた。東郷氏との仕事は肉体的にはとてもキツイが、いつも充実感があった。

2000年夏頃から、東郷局長から私のところに回される書類が増えてきた。「ロシア課から上がってくる紙が基準に達していない。小寺課長の構想力の限界だ。あなたの方で見て、チェックしてほしい」と言われることが多くなった。そして、私のコメントを踏まえ、東郷氏が自己の見解を付け加え、対露交渉の戦略・戦術文書が作成されることが多くなった。
このことが一部のロシア課員には、東郷局長が、鈴木氏の意向を受けた私に操られていると見えたのであろう。しかし、これは全く的外れな見方だ。なぜなら鈴木氏と東郷氏は強い信頼関係で結ばれていたので、「佐藤経由」などという小技を使わなくても、鈴木氏はストレートに東郷氏に自らの意向を伝えていたからだ。また、東郷氏も決して鈴木氏の言いなりだったわけではない。「できることはできる」、「できないことはできない」ときちんと答えていた。
政治家と官僚では、文化も行動の基礎となる「ゲームのルール」も大きく異なる。私が理解するところでは、鈴木宗男氏と外務省の軋轢のほとんどは、文化摩擦、もしくは「ゲームのルール」の相違から生じるもので、その点をお互いが理解すれば、問題はいつも解決した。霞が関(官界)と永田町(政界)は、隣町だが、その距離は実はいちばん遠い。なぜなら地球を反対側に一周しなくては行き着けないからである。
東郷氏と私が永田町に受け入れられていたとすると、そのわけは、霞が関と永田町の間の通訳能力をもっていたからではないかと思う。

通訳の具体例をあげてみよう。
官僚とちょっとした行き違いがあった後、政治家が「俺は気にしていないぞ」と言ったとする。この永田町言語を翻訳すると「俺の方ではなく、お前の方で深く反省して、何か言ってこい」ということだ。
「東郷局長は元気かな。忙しそうなので、今度俺の方から挨拶に行くよ」という永田町言語は「東郷は最近どうも他の政治家のところをうろちょろしているようだな。すぐに俺のところに顔を出せ」と翻訳しなくてはならない。
しかし、多くの外務省の同僚に、私や東郷氏の通訳能力は理解されなかった。

2000年秋以降、対露関係で、官邸絡みのいくつかの重要案件に関する指示が小寺ロシア課長を迂回して、東郷局長から私に直接なされるようになった。
私は東郷氏に対して、「このままだと、ただでさえ複雑な私のチームとロシア課の関係が一層複雑になります。その点について配慮してください」と要求した。これに対し東郷氏は、「ロシア課にはあなたを慕っている人も多いので、心配しないでよい。小寺は僕がきちんと抑える」と答えた。
仕事を遂行する上で、例えば「チーム」メンバーをモスクワに出張させる場合も、本当の目的を言うことができない。そこで、関係部局から「不必要な出張ではないか」とストップがかかる。業務について説明することが、東郷局長によって厳禁されているので、私は各部局の担当者や課長に納得できないならば、とにかく上にあげてくれ」というしかない。しぶしぶ各課が上にあげると、そこでは東郷氏による根回しが済まされているので、簡単に決裁される。そうすると、当然、事情を知らない人々からは「外務省上層部がどこかから圧力を受けている。佐藤たちは一体何をしているのか」という疑念を招くことになる。
特に2000年12月25日、クレムリンで行われた鈴木宗男自民党総務局長とプーチン大統領最側近のセルゲイ・イワノフ安全保障会議事務局長との会談については、事前にロシア課には課長を含めその計画を一切知らせていなかったので、私と小寺課長の関係は決定的に悪化した。
私は、「東郷さん、このような体制で仕事をいつまでも続けることはできません。チーム員の負担が大きすぎます。作業の一部をロシア課に移管すべきです」と訴えたが、東郷局長は、「あと2、3ヵ月だ。平和条約への道筋ができれば、みんな理解してくれる。まずは成功することだ」と言った。
ある意味で東郷局長の主張は正しかった。しかし、私にとっても東郷氏にとっても不幸だったのは、その正しさが成功によってではなく、失敗によって証明されたことだ。結局、平和条約への道筋をつけることはできなかったのである。それゆえに東郷氏も私も「チーム」も外務省の同僚たちからは理解されず、反感だけが蓄積されたのだった。そして、それは巨大なマグマのうねりのように地中で蠢き始めていた。これが、田中眞紀子外相誕生前夜に、私たちが置かれていた状況だったのである。

 

 


解説
私にとっても東郷氏にとっても不幸だったのは、その正しさが成功によってではなく、失敗によって証明されたことだ。結局、平和条約への道筋をつけることはできなかったのである。それゆえに東郷氏も私も「チーム」も外務省の同僚たちからは理解されず、反感だけが蓄積されたのだった。そして、それは巨大なマグマのうねりのように地中で蠢き始めていた。これが、田中眞紀子外相誕生前夜に、私たちが置かれていた状況だったのである。

なるほど、当時の背景がよく分かります。

 

獅子風蓮


佐藤優『国家の罠』その12

2025-01-26 01:46:55 | 佐藤優

佐藤優氏を知るために、初期の著作を読んでみました。

まずは、この本です。

佐藤優『国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて』

ロシア外交、北方領土をめぐるスキャンダルとして政官界を震撼させた「鈴木宗男事件」。その“断罪”の背後では、国家の大規模な路線転換が絶対矛盾を抱えながら進んでいた―。外務省きっての情報のプロとして対ロ交渉の最前線を支えていた著者が、逮捕後の検察との息詰まる応酬を再現して「国策捜査」の真相を明かす。執筆活動を続けることの新たな決意を記す文庫版あとがきを加え刊行。

国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて
□序 章 「わが家」にて
□第1章 逮捕前夜
□第2章 田中眞紀子と鈴木宗男の闘い
 □「小泉内閣生みの母」
 □日露関係の経緯
 □外務省、冷戦後の潮流
 □「スクール」と「マフィア」
 ■「ロシアスクール」内紛の構図
 □国益にいちばん害を与える外交官とは
 □戦闘開始
 □田中眞紀子はヒトラー、鈴木宗男はスターリン
 □外務省の組織崩壊
 □休戦協定の手土産
 □外務官僚の面従腹背
 □「9・11事件」で再始動
 □眞紀子外相の致命的な失言
 □警告
 □森・プーチン会談の舞台裏で
 □NGO出席問題の真相
 □モスクワの涙
 □外交官生命の終わり
□第3章 作られた疑惑
□第4章 「国策捜査」開始
□第5章 「時代のけじめ」としての「国策捜査」
□第6章 獄中から保釈、そして裁判闘争へ
□あとがき
□文庫版あとがき――国内亡命者として
※文中に登場する人物の肩書きは、特に説明のないかぎり当時のものです。

 


「ロシアスクール」内紛の構図

さて、話を元に戻そう。
一部の外務省関係者が「佐藤優は、鈴木宗男の意向を受けて外務省を陰で操るラスプーチンだ。組織を健全化させるためには、早く佐藤を追放しなくてはならない」という話を新聞や週刊誌の記者に流しているということは私の耳にも入っていた。既に数種類の怪文書も出回っており、その中には、外務省の「ロシアスクール」関係者しか知らない内容も含まれていたので、この時、田中女史に働きかけて私を追放しようと画策する人々の中心になっていたのが小寺次郎前ロシア課長だということは、すぐに分かった。
私は、外務省関係者とは、仕事を離れてはそれ程深い付き合いをしないようにしていた。仕事に絡むことならばいくらでも社交的になるが、もともと人見知りが激しく、本当に気を許すことのできる人以外とは食事や酒を共にしたくないのである。
小寺氏とはモスクワで一緒に仕事をしたことがあった。特に親しくもなかったが、敵対していたわけでもない。小寺氏がロシア課長に就任する前に一度、二人で食事をしたし、課長に就任した後も外務省内の喫茶店で何度も密談をするなど、それなりの関係は維持できていた。それが崩れ、小寺課長と私、そして東郷局長の関係が決定的に悪化したのは2000年秋からである。
97年11月、橋本龍太郎首相とエリツィン大統領がシベリアのクラスノヤルスクで会って「東京宣言に基づき、2000年までに平和条約を締結するよう全力を尽くす」と合意した。東京宣言では、北方四島の帰属問題を解決するということが明記されている。つまり、クラスノヤルスクの合意とは、2000年までに北方領土問題を解決するために全力を尽くすという約束を日露両首脳が取り交わしたことに他ならない。そして、98年4月、静岡県伊東市川奈で橋本首相はエリツィン大統領に対して、北方領土問題を基本的に解決し、平和条約締結が可能になる大胆な秘密提案を行った(「川奈提案」)。
しかし、その後、2000年夏時点で、両国の首脳も替わり、年末までに北方領土問題を解決することは非現実的な状況になっていた。プーチン大統領が9月に訪日することが予定されていたが、その際にプーチンが「川奈提案」を正式に拒否することになるという感触を日本側はつかんでいた。
日露関係の停滞を招いてはならないと考えた両国の政治家、外交官は水面下で様々な接触を行った。そして、東郷和彦欧亜局長は、1956年日ソ共同宣言に注目して、北方領土問題を「川奈提案」とは別の切り口で解決する道を真剣に探究した。私は東郷氏の腹案について、かなり早い時期、2000年の初夏に相談を受けた。その腹案に対して私なりの意見を述べた。そのことについてはまだ読者に紹介するタイミングではないと私は考えている。なぜなら、東郷氏の腹案は、私が見るところ、今もプーチン大統領と噛み合う形で北方四島問題の解決を図ることのできる実効性をもった戦略だからだ。従って、その手の内を明かすことはできない。ただし、外交秘密に触れない範囲で東郷氏の腹案の大枠について読者に説明することは可能だ。小難しい話になるがお許し願いたい。

巷では東郷氏の考え方は「二島返還論」もしくは「二島先行返還論」で、日本政府の方針から外れているとの批判がなされたが、これらは為にする批判で、ピントがずれている。1956年日ソ共同宣言第九項では、「ソ連邦は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本国とソ連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする」と規定されている。
前にも述べたが、日ソ共同宣言は、「宣言」という名前だが、両国の国会で批准され法的拘束力をもつ国際条約だ。それにもかかわらず、ブレジネフ書記長、ゴルバチョフ大統領は、ソ連が歯舞群島、色丹島を日本に引き渡す義務を負っていることについては頬被りをしていた。
エリツィン大統領も56年日ソ共同宣言の有効性について間接的には認めたが、歯舞群島、色丹島の引き渡し問題には踏み込まなかった。56年以降、日本政府の立場は四島に対する日本の主権(もしくは潜在主権)を確認することで日露(ソ)平和条約を締結するということで一貫している。平和条約が締結されれば、北方四島の内、歯舞群島、色丹島の二島が日本に引き渡されることについては既にロシア(ソ連)との間で合意している。
従って、日本の立場からすると国後島、択捉島が日本領であるということを確認することが平和条約交渉の要点なのである。日本はまず56年宣言の二島引き渡しをロシア(ソ連)に認めさせ、その上で国後島、択捉島の日本の主権を認めさせるというのが日本政府の冷戦時代からの伝統的戦略だった。いわば江戸から東海道を通って京都に行こうとするアプローチだ。
しかし、56年日ソ共同宣言の二島引き渡しという「川」をどうしても渡ることができなかった。91年4月のゴルバチョフ大統領訪日に関する新聞記事を見れば、56年日ソ共同宣言を確認できなかったことが関係者に大きなショックを与えたことがわかる。
東海道をいくら進んでも大井川を越えることができないので、日本政府は今度は中仙道から京都に行くことを考えた。これが「川奈提案」だ。
四島一括という立場でぎりぎりの譲歩をしたのが「川奈提案」だった。「川奈提案」の内容は今でも秘密にされているので、踏み込んだ説明はできないが、プーチン政権の誕生で、中仙道よりも東海道で京都に行き着く可能性が高まったと東郷氏は考えた。その後、ロシア側の予測される反応について種々の情報を収集した上で、私も東郷氏の考えを心底支持するようになった。東郷氏が「二島返還」で平和条約を締結することを考えたことは一度もない。東郷氏が「二島先行返還」すなわち、歯舞群島、色丹島を先に返還し、国後島、択捉島の帰属が決まらなくても平和条約を締結することができるなどと考えたこともない。歯舞群島と色丹島についてはロシアから日本への引き渡しについて合意しているのだから、「返還の具体的条件」について話し合い、国後島、択捉島については帰属について交渉するという「2+2方式」が日露平和条約交渉を加速する現実的方策と東郷氏は考えたのである。
東郷氏の腹案が、日本政府のこれまでの方針の枠内で構築されたものであることを、私は自らの良心に賭して保証する。当時、小寺課長を含め、外務省関係者は誰ひとりとして東郷局長のこの考え方に異議を唱えなかった。
2000年9月のプーチン大統領訪日直前に、大統領訪日時に合意しようとしていた重要文書の日本案が朝日新聞に漏れてしまった。これに対して森喜朗首相が激怒。外務省では東郷氏が中心となりかなり本気で「犯人探し」をしたが、漏洩者を最終的に特定することはできなかった。
プーチン訪日後、東郷局長は、ロシア課では機微な情報工作を行うことは無理だと判断し、当時私がチームリーダーをつとめ、国際情報分析第一課内に設けられていた「ロシア情報収集・分析チーム」に対して、いくつかの特命案件の処理を命じた。
この「チーム」は、小渕政権下の98年夏に官邸からの特命を受けて活動を始め、99年4月に省内決裁を得て正式に発足したのだった。2000年までという期限を設けて日露平和条約の締結を目指すという特殊な事情を背景に、国際情報局長と欧亜局長の指揮監督の下で、外に見えない形で、機動的に任務を果たすことを求められた。こうした官邸主導の対ロシア外交を政治の側から実務的に支えてきたのが鈴木宗男自民党総務局長だったので、この「チーム」が鈴木氏と行動を共にする機会も少なからずあった。
これまで「チーム」の活動について、職制上はロシア課長に対して報告義務はなかった。しかし、「黒衣」であるわれわれが無用な誤解をロシア課員から抱かれないようにするために、私はロシア課長にはできるだけ「チーム」に与えられている仕事の内容を説明するようにつとめた。
小寺氏の前任ロシア課長、篠田研次氏との間では、意思疎通がよくできたので、大きなトラブルはなかった。小寺課長になってからも意思疎通はできていたが、肝胆相照らすという関係にはならなかった。私は、ロシア課の中に鈴木宗男氏、東郷和彦局長、そして、私を中心とする「ロシア情報収集・分析チーム」メンバーに対する不満が蓄積されているのを感じていた。

 

 


解説
一部の外務省関係者が「佐藤優は、鈴木宗男の意向を受けて外務省を陰で操るラスプーチンだ。組織を健全化させるためには、早く佐藤を追放しなくてはならない」という話を新聞や週刊誌の記者に流しているということは私の耳にも入っていた。既に数種類の怪文書も出回っており、その中には、外務省の「ロシアスクール」関係者しか知らない内容も含まれていたので、この時、田中女史に働きかけて私を追放しようと画策する人々の中心になっていたのが小寺次郎前ロシア課長だということは、すぐに分かった。(中略)
私は、ロシア課の中に鈴木宗男氏、東郷和彦局長、そして、私を中心とする「ロシア情報収集・分析チーム」メンバーに対する不満が蓄積されているのを感じていた。

なるほど、外務省、それも同じロシアスクールの中でも内紛があったのですね。
そのため、佐藤氏を追放しようという動きが外務省内から出てきたのですね。

 

獅子風蓮


佐藤優『国家の罠』その11

2025-01-25 01:14:17 | 佐藤優

佐藤優氏を知るために、初期の著作を読んでみました。

まずは、この本です。

佐藤優『国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて』

ロシア外交、北方領土をめぐるスキャンダルとして政官界を震撼させた「鈴木宗男事件」。その“断罪”の背後では、国家の大規模な路線転換が絶対矛盾を抱えながら進んでいた―。外務省きっての情報のプロとして対ロ交渉の最前線を支えていた著者が、逮捕後の検察との息詰まる応酬を再現して「国策捜査」の真相を明かす。執筆活動を続けることの新たな決意を記す文庫版あとがきを加え刊行。

国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて
□序 章 「わが家」にて
□第1章 逮捕前夜
□第2章 田中眞紀子と鈴木宗男の闘い
 □「小泉内閣生みの母」
 □日露関係の経緯
 □外務省、冷戦後の潮流
 ■「スクール」と「マフィア」
 □「ロシアスクール」内紛の構図
 □国益にいちばん害を与える外交官とは
 □戦闘開始
 □田中眞紀子はヒトラー、鈴木宗男はスターリン
 □外務省の組織崩壊
 □休戦協定の手土産
 □外務官僚の面従腹背
 □「9・11事件」で再始動
 □眞紀子外相の致命的な失言
 □警告
 □森・プーチン会談の舞台裏で
 □NGO出席問題の真相
 □モスクワの涙
 □外交官生命の終わり
□第3章 作られた疑惑
□第4章 「国策捜査」開始
□第5章 「時代のけじめ」としての「国策捜査」
□第6章 獄中から保釈、そして裁判闘争へ
□あとがき
□文庫版あとがき――国内亡命者として
※文中に登場する人物の肩書きは、特に説明のないかぎり当時のものです。

 


「スクール」と「マフィア」

外務省には、東大閥、京大閥、慶應閥といったいわゆる学閥は存在しない。代わりに、外務省用語では「スクール」と呼ばれる、研修語学別の派閥が存在する。それらは、「アメリカスクール(英米派)」、「チャイナスクール(中国派)」、「ジャーマンスクール(ドイツ派)」、「ロシアスクール(ロシア派)」などに大別される。
さらに、外務省に入ってからの業務により、法律畑を歩むことの多かった人々は「条約局マフィア」、経済協力に関しては「経協マフィア」、会計部門の専門家は「会計マフィア」というような派閥が存在する。また、近年は主要国首脳会議(サミット)のロジ(宿舎、通信、車回しなどの裏方作業)を担当する「サミットマフィア」というグループも頭角を現してきていた。
人事はもっぱら「スクール」や「マフィア」内で行われ、情報もなるべく部外へは漏らさないことで、省内にはいくつもの閉鎖した小社会が形成されることになった。これがよい方向に出れば、専門家集団としての活力を十二分に生かすことができるし、悪い方向に出れば、不正の温床になってしまう。

2001年に露見した内閣官房報償費(機密費)詐取事件やタクシー券詐取事件は「サミットマフィア」の体質を解明することなくして理解できない。同様に、鈴木宗男氏を巡る外務省疑惑は、「ロシアスクール」の体質を解明することなくして理解できない。
外務省の場合、対露政策については、欧州局長の指揮下、ロシア課長が具体的戦略を策定し、それが通常日本の外交政策となる。欧州局長なりロシア課長が「ロシアスクール」の有力者で占められているときは特に問題は生じない。しかし、人事の巡り合わせから局長、課長がロシア専門家ではない、あるいは「ロシアスクール」に属していても能力的に劣る人物の場合には、実質的な意思決定が「ロシアスクール」の親分格の人々によってなされることになる。この親分格にあたるのが丹波實氏(外務審議官、駐露大使を歴任)であり東郷和彦氏(欧州局長、駐オランダ大使を歴任)だった。
人事についても、公には人事課に決定権があるのだが、ロシア関係者、中国関係者や会計関係者については、「ロシアスクール」、「チャイナスクール」、「会計マフィア」ががっちりと握っている。組織内部に異なる潮流が存在するのはよくある現象であり、これが組織を活性化する基盤となることも少なくない。そして、同じ考えをもつ人同士がグループ、つまり派閥を作るというのもごく自然な現象である。
派閥があれば必ず抗争が生じ、それはまた必然的に人事と結びつく。しかし、派閥の存在が肥大化すると、往々にして抗争自体が自己目的化しはじめることになる。そうした動きを組織が抑えきれず、組織の目的追求に支障を来すようになった時、組織自体の存亡にかかわる危機となるのである。
外務省の場合、田中眞紀子外相の登場により、組織が弱体化したことで、それがこれまで潜在していた省内対立を顕在化させることになり、機能不全を起こした組織全体が危機的な状況へと陥った。その際、外務省は、そもそも危機の元凶となった田中眞紀子女史を放逐するために鈴木宗男氏の政治的影響力を最大限に活用した。そして、田中女史が放逐された後は、「用済み」となった鈴木氏を整理した。この過程で鈴木宗男氏と親しかった私も整理された――。
こう見ていくと、実にわかりやすい構図だと言えよう。

 


解説
外務省には、東大閥、京大閥、慶應閥といったいわゆる学閥は存在しない。

これについてはどうなんでしょう。
鈴木宗男氏の『闇権力の執行人』によると、外務省には学閥がないとされるが、例外がふたつだけあるという。
一つは「如水会」という一橋大学グループで、もう一つが創価大学閥だという。
みなさん御存知の「大鳳会」ですね。
佐藤氏はこのことを知っていたはずなのに、なぜか言及していません。


派閥があれば必ず抗争が生じ、それはまた必然的に人事と結びつく。しかし、派閥の存在が肥大化すると、往々にして抗争自体が自己目的化しはじめることになる。そうした動きを組織が抑えきれず、組織の目的追求に支障を来すようになった時、組織自体の存亡にかかわる危機となるのである。
外務省の場合、田中眞紀子外相の登場により、組織が弱体化したことで、それがこれまで潜在していた省内対立を顕在化させることになり、機能不全を起こした組織全体が危機的な状況へと陥った。その際、外務省は、そもそも危機の元凶となった田中眞紀子女史を放逐するために鈴木宗男氏の政治的影響力を最大限に活用した。そして、田中女史が放逐された後は、「用済み」となった鈴木氏を整理した。この過程で鈴木宗男氏と親しかった私も整理された――。

たしかに、わかりやすい構図ではあります。

 

 

獅子風蓮


佐藤優『国家の罠』その10

2025-01-24 01:58:58 | 佐藤優

佐藤優氏を知るために、初期の著作を読んでみました。

まずは、この本です。

佐藤優『国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて』

ロシア外交、北方領土をめぐるスキャンダルとして政官界を震撼させた「鈴木宗男事件」。その“断罪”の背後では、国家の大規模な路線転換が絶対矛盾を抱えながら進んでいた―。外務省きっての情報のプロとして対ロ交渉の最前線を支えていた著者が、逮捕後の検察との息詰まる応酬を再現して「国策捜査」の真相を明かす。執筆活動を続けることの新たな決意を記す文庫版あとがきを加え刊行。

国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて
□序 章 「わが家」にて
□第1章 逮捕前夜
□第2章 田中眞紀子と鈴木宗男の闘い
 □「小泉内閣生みの母」
 □日露関係の経緯
 ■外務省、冷戦後の潮流
 □「スクール」と「マフィア」
 □「ロシアスクール」内紛の構図
 □国益にいちばん害を与える外交官とは
 □戦闘開始
 □田中眞紀子はヒトラー、鈴木宗男はスターリン
 □外務省の組織崩壊
 □休戦協定の手土産
 □外務官僚の面従腹背
 □「9・11事件」で再始動
 □眞紀子外相の致命的な失言
 □警告
 □森・プーチン会談の舞台裏で
 □NGO出席問題の真相
 □モスクワの涙
 □外交官生命の終わり
□第3章 作られた疑惑
□第4章 「国策捜査」開始
□第5章 「時代のけじめ」としての「国策捜査」
□第6章 獄中から保釈、そして裁判闘争へ
□あとがき
□文庫版あとがき――国内亡命者として
※文中に登場する人物の肩書きは、特に説明のないかぎり当時のものです。

 


外務省、冷戦後の潮流

ここで、外務省の基本的な外交スタンスとその組織の実態についても言及しておくことにする。
一般に日本外交は対米追従で、外務省には親米派しかいないという論評がなされる。この論評は、半分はずれていて、半分あたっている。日本外交は常にアメリカに追従しているわけではない。捕鯨問題、軍縮問題、地球温暖化問題など重要問題で日本がアメリカの方針に従わないことも多い。しかし、私を含め、外務省員は全員親米派である。
ただし、親米の中味については、日本はアメリカと価値観を共有するので常に共に進むべきであるという「イデオロギー的な親米主義」と、アングロサクソン(英米)は戦争に強いので、強い者とは喧嘩してはならないという「現実主義」では、「親米」という結論は同じだとしても、その論理構成は大きく異なる。ここで強調しておきたいのは、外交の世界において、論理構成は、その結論と同じくらい重要性をもつということだ。
東西冷戦期には、「資本主義対社会主義」、「自由主義対共産主義」、「民主主義対全体主義」などの対立項が立てられたが、実はその呼び方は本質的問題ではない。要するに「われわれ(日本、アメリカ、西欧)」は正しく「奴ら(ソ連、東欧、中国)」は絶対に間違っているという二項対立の図式が現実性をもっていたということ、それがすなわち冷戦構造の本質だったといっても過言ではない。
従って、共産主義と対抗する上でのイデオロギー的な親米は、現実主義の観点からも日本の国益に適っていた。しかし、1991年12月にソ連が崩壊し、新生ロシアは自由、民主主義、市場経済という西側と価値観を共有する国家に転換したので、反共イデオロギーに基づく親米路線はその存立基盤を失った。
こうした冷戦構造の崩壊を受けて、外務省内部でも、日米同盟を基調とする中で、三つの異なった潮流が形成されてくる。そして、この変化は外部からは極めて見えにくい形で進行した。

第一の潮流は、冷戦がアメリカの勝利により終結したことにより、今後、長期間にわたってアメリカの一人勝ちの時代が続くので、日本はこれまで以上にアメリカとの同盟関係を強化しようという考え方である。
具体的には、沖縄の米軍基地移転問題をうまく解決し、日本が集団的自衛権を行使することを明言し、アメリカの軍事行動に直接参加できる道筋をきちんと組み立てれば、日本の安全と繁栄は今後長期にわたって保証されるという考え方である。この考え方に立つと日本は中国やロシアと余計な外交ゲームをすべきではないということになる。これを狭義の意味での「親米主義」と名づけておく。

第二の潮流は、「アジア主義」である。冷戦終結後、国際政治において深刻なイデオロギー上の対立がなくなり、アメリカを中心とする自由民主主義陣営が勝利したことにより、かえって日米欧各国の国家エゴイズムが剥き出しになる。世界は不安定になるので、日本は歴史的、地理的にアジア国家であるということをもう一度見直し、中国と安定した関係を構築することに国家戦略の比重を移し、その上でアジアにおいて安定した地位を得ようとする考え方である。1970年代後半には、中国語を専門とする外交官を中心に外務省内部でこの考え方の核ができあがり、冷戦終結後、影響力を拡大した。

第三の潮流は「地政学論」である。「地政学主義」とせず「地政学論」としたのは、この考えに立つ人々は、特定のイデオロギー(イズム=主義)に立つ外交を否定する傾向が強いからである。その基本的な主張は次のようなものだった。
東西冷戦期には、共産主義に対抗する反共主義で西側陣営が結束することが個別国家の利益に適っていたので、「イデオロギー外交」と「現実主義外交」の間に大きな開きはなかったが、共産主義というイデオロギーがなくなった以上、対抗イデオロギーである反共主義も有効性を喪失したと考える。その場合、日本がアジア・太平洋地域に位置するという地政学的意味が重要となる。つまり、日本、アメリカ、中国、ロシアの四大国によるパワーゲームの時代が始まったのであり、この中で、最も距離のある日本とロシアの関係を近づけることが、日本にとってもロシアにとっても、そして地域全体にとってもプラスになる、という考え方である。
この「地政学論」の担い手となったのは、冷戦時代、「日米軍事同盟を揺るぎなき核として反ソ・反共政策を貫くべきだ」という「対ソ強硬論」を主張したロシア語を専門とする外交官の一部だった。さらに、彼らは日本にとっての将来的脅威は、政治・経済・軍事面で影響力を急速に拡大しつつある中国で、今の段階で中国を抑え込む「ゲームのルール」を日米露三国で巧みに作っておく必要があると考えたのである。「地政学論者」の数は少なかったが、橋本龍太郎政権以降、小渕恵三、森喜朗までの三つの政権において、「地政学論」とそれに基づく日露関係改善が重視されたために、この潮流に属する人々の発言力が強まった。

同時に、これら三つの異なった潮流と、そもそも外務省内部にあった派閥抗争が絡み合う形で、省内抗争は外部の人脈を巻き込みながらより複雑なものへと変貌していった。

 


解説
こうした冷戦構造の崩壊を受けて、外務省内部でも、日米同盟を基調とする中で、三つの異なった潮流が形成されてくる。……
第一の潮流は、……日本はこれまで以上にアメリカとの同盟関係を強化しようという考え方である。……
第二の潮流は、「アジア主義」である。……中国と安定した関係を構築することに国家戦略の比重を移し、その上でアジアにおいて安定した地位を得ようとする考え方である。
第三の潮流は「地政学論」である。……「地政学論者」の数は少なかったが、橋本龍太郎政権以降、小渕恵三、森喜朗までの三つの政権において、「地政学論」とそれに基づく日露関係改善が重視されたために、この潮流に属する人々の発言力が強まった。

なるほど、佐藤優氏は、第三の潮流「地政学論」に属したため発言力が強まったのですね。

 

獅子風蓮