ストーブや一秒ほどの夢を見て 西村麒麟
「俳句界」が毎年行う独自の新人発掘企画である【北斗賞】は今年で7回目となる。今回は西村麒麟(33)が受賞した。どこかで聞いたことのある名だが、おそらくこのところ目立つ俳壇全体の新人発掘プロジェクトによって見出された一人であろうか。この競泳の中でも、とりわけこの作者の【ストーブや一秒ほどの夢を見て】が目に止まった。何度読み直しても「一秒ほどの夢」のリアルさが私の眼に突き刺さって来る。私は作者とは親子ほど年齢が離れているが、わずか1秒しか見ることの出来ない《夢》の切実さが痛いほど伝わって来る。ここにある「一秒」とは,実のところ《0秒》に等しく、夢をみることの不可能性の暗喩であることに気付かなければならない。句のあらましから見直して行こう。上5は「ストーブ」で切れている。厳冬期にあって、作者は室内で「ストーブ」に当たりながら何ごとかを思い浮かべている。このシチュエーションの中に置かれている作者について、読者は二つのことを知らねばならない。作者は間違いなく《ひとり》であること、そしてその孤絶の中で《夢》を見ようとしてしていることである。そして、作者はついに《夢》を見ることが出来たのだろう。しかし、その《夢》の長さはわずかに《一秒》であった。小さな小さな《夢》だ。《一秒》しか見ることのかなわない《夢》とはどのような内容を持ち合わせるのだろうか。通常、《一秒》とは《瞬間》ということを意味する。とても何か意味のある《夢》を見ることのかなう長さではない。作者は「ストーブ」の前で、ただ単にうつらうつらしていただけで《夢》を見ることは無かった。それを「一秒ほどの夢を見て」と言い止めた。彼はまだ33歳、俳句結社『古志』同人とある。おそらく、20歳代もしくは10歳代から句作を続けているのかもしれない。俳壇の新人発掘プロジェクトの一つ【石田波郷新人賞】の第一回受賞者とある。そんな作者が、いまも見る【一秒ほどの夢】とは《夢》を見ることの不可能性を意味していた。そして、同時に有名結社の同人でありながら俳句表現において確実に単独者であり続けている。その痛々しさを言い知れぬ深さをもって感じてしまうのは、親子ほどの年齢差を超えて私にも避け難いことなのだろう。・・・《続く》