極月や第二芸術いさぎよし 極月の俳句歌はぬことと決め 極月のコンビニ何か変わったか 極月のぶつかり稽古俳句にも 船団にまた入るとき極月か ヨーソロー極月愚直な奴ばかり 極月のまさかのアナキズム詩人(1970年代に金子光晴と交流) 極月の実存無かったことにして 極月の坪内イズムもういらぬ 極月の反キリストかわたくしは 極月の誰か殺めし心地せり 極月や従姉の描きし踊る人 極月の俳句カルトと達観す 極月の二度と上がれぬ底にいる 極月や元市議の新聞拡張員 極月の麦といふ名の結社あり 極月や三橋敏夫の季語となり 極月やただ生きているだけのこと 極月の亡父と言ひ亡母と言ひ 極月の首塚もはや地を成さず 極月のこの世とあの世紙一重
今日はついに【小晦日】で、もうすぐ1年が終ろうとしている。夕方から年末恒例の【日本レコード大賞】の発表がある。以前は31日にやっていたが、紅白と重なるのを避けたかたちになった。20歳代に業界に入りかけたことがあり、長い間この時期になると胸がドキドキしたものだ。しかし、今ではあまり興味が湧いて来ない。音楽業界もAKB48グループとエイヴェックスばかりで画一化されてしまっている。そんな中で、カラオケバトルの大流行はとても新鮮に感じる。これも、数年前から音楽業界全体の新世紀プロジェクト【歌謡バラード】として始まったもので、その先鞭をつけたのがテレビ東京(大阪)系の【THEカラオケバトル】であった。全国津々浦々の実に多彩な層の人々が、カラオケマシン(歌詞・伴奏・評価までAI化)を相手に100点を目指して凌ぎをけずっている。これは、俳句などの伝統文芸や現代詩の延長上にある現代俳句(旧前衛俳句)には、決して真似の出来ないことであろう。しかし、俳句形式のかつて《座》と呼ばれた結社などの擬似共同体をベースにした、集団的な表現形態と全く異なっているというわけではない。彼らは、年齢職業を問わず、昭和歌謡から最近のJ-POPまで共有された歌謡の形式を踏襲しながら、それぞれの《個性》と《技術》を競い合う。カラオケという表現形態もまた【定型性】を色濃く持っているというべきだ。カラオケバトルは、旧来の単なるプロ集団によるアマチュアのオーディション番組とは根本的に異なる由縁である。歌謡曲やPOPを個人が生き生きとつながり、歌うということを共有し合うことがあからさまに目指されている。全国に拡がる膨大なカラオケ愛好者の中から、とりあえず2人の大物歌手が誕生した。城南海(きずきみなみ)と林部智史(はやしべさとし)である。この二人については別項で触れてゆきたい。それより、自分のこれからの【俳句形式】による言語(表現)活動である。年の終りに少しは考えておかないと、新年の出足が鈍ってしまう。・・・《続く》