1980年の時点で、私はまだ27歳であった。2017年現在、その倍を楽に上回る年代に達している。その27歳にとって、東京の世界のどこにも居場所は無かった。それほどに、それに先立つ1970年代という時代の激変は巨大なものであった。しかも、70年安保世代のようにやるだけやって去って行った者たちとはまるで立場が異なっていた。前の世代からは置いてけぼりを喰らい、後に続く世代からは宙ぶらりんのネクラな隠者としか見られなかった。つい先ほど、NHKeテレ【ニッポンのジレンマ】シリーズの《クリエーターたちはいまー言葉のジレンマ》を観た。出演者は女性詩人(26)、ミュージシャンで作家(19)、評論家(33)などであった。ちょうど、親子の年齢差があり、この少し上が所謂団塊ジュニアである。彼らは、口々に自己表現としての詩・音楽・批評の困難を語っていた。しかし、不思議とネガティブさは微塵も無く、むしろ晴れ晴れとしていた。敵も見方も【手の届く所】に実在し、自己も他者も・・それらを巻き込む《世界》もまた極めてポジティブなものであるからだ。それでは、1980年初頭の私たちはどうだったのだろうか。私も世界も大きな音をたてて動いているのはわかるが、私というものにかつての《主体》といった何の確かさも与えられず、世界もまた日々生きて在る視界の外にあった。そのことは、何故かどのようにも確実なことで、前時代のような否定の対象ではなく、だからといって21世紀の【ポストモダン】を生きる若者たちのように、人も物ももはや身近なところには見出すことは出来なかった。ところが、自分たちよりほんの数年の違いでこの時代に登場したとされる人々は、私たちとは何の連続性も無い、突然、地から湧き出て来たような異人種たちだった。もはや、闘う相手はどこにもいなかった。私は孤絶感のあまり、当時流行の兆しを見せていた【神秘世界】や【精神世界】の超現実の渦中に飛び込んだ。俳句もまた、その非現実のジャンルの一つであった。・・・《続く》
吉野家は敗北の味夏の雨 北大路翼 (その1)
1970年代とは、60年代末の【70年安保】世代のあまりにも強烈な余韻の中に始まり、その半ばには終ったというより何の痕跡も残さず消えていった空白の時代であった。次なる1980年代との区切りも曖昧模糊としたものに過ぎなかった。明けて1980年、街にはテクノポップなるBGMが流れていた。50~60年代のアメリカンPOPの変調のような空疎な音楽が人気を博し、70年代前半に湧き起こったフォーク・ソングやニュー・ミュージックとも違う、音が流れた後に何も残らないことを本旨とするような無価値・無目的ソングが主流を占めた。文学も、70年安保世代の【敗北後】の虚脱感を主調にした、行動や思考が何物も生み出さないことを反芻するような空虚感を売り物にしていた。そして、その渦中で【70年安保】世代や遅れて来た我々の世代とは全く異なる、というより何の関連性も無い新たな世代が生まれ始めていた。彼らは【第一次おたく世代】であり、【元祖新人類】と呼ばれた。概ね、彼らは1980年時点で成人を迎え、前世代の痕跡を何ら受け継いでいない者たちであった。・・・《続く》
1980年代とは、言うまでもなくそれに先立つ70年代の延長上にある。私は1979年限りで音楽業界への参入を断念し、1980年に中央線文化の中心地【吉祥寺】に舞い戻った。2017年の現在も、少なくとも東京では人気ナンバーワンの郊外エリアである。私にとっても、この時代にとっても【吉祥寺】とはそのような存在ではなかった。正確に言うと、そのような最も上質な【1億総中流タウン】などではあり得なかった。しかし、駅前のドブ板を抜けた所にパルコが出来てしまうと、もう私の居場所は何処にも無かった。ほんの1~2年前には、そのドブ板の一角にかのJAZZ喫茶【ファンキー】が威を奮っていたし、夜な夜な閉店の午前2時まで身を潜めていた。関西の摂津幸彦さんも70年代の早い時期に首都圏に転居しており、間違いなくこのSPOTに足を運んだと断言出来る。そのファンキーも、1980年代の初頭にパルコを中心とする駅前の再開発の波に呑み込まれ、何とパルコの並びのオシャレなパスタ店の2階の窮屈なスペースに移転していた。そこにはカウンターだけしかなく、ジャズも単なるBGMに成り果てていた。以前のように、現代詩文庫や吉本隆明全集を持ち込み、コーヒー1杯で何時間も居座る余地は根本から失われていた。・・・《続く》