部屋から一歩外に出れば新型コロナウイルスの蔓延する20年遅れの終末の世界が待っている。このまま部屋の中に止まれば、肉体の死に向かってひた走る【高齢単身者】の日常に溺れてしまう。果たして今日これからどうすれば生きていることの快感を取り戻すことが出来るのだろうか?970年代に突然眼の前に拓かれた青春と呼ばれる自由と光明をとりあえず想い出してみる。パソコンを起ち上げるとまずヤフーとグーグルの光景が無限に拡がる。当然ながら、旧世代の私にはそれは虚偽の空間でしかなく・・それでも一応の最新の倦怠感を引き擦りながら、今度はYOU TUBEという映像サイトに移動する。1974年に解散した【赤い鳥】という関西出身で東京で受けに受けたグループとその後継者であった【ハイファイセット】【紙ふうせん】の2グループがヒモ付きで現れる。前者は1970年前後の人間回復ムーブメントの色濃い、敗北の証しとしての【終末文化】のハシリの一つである。その後数年で主体とか思想とか本質といったものが突然消滅し、後者の底無しの日常性に放り込まれた。赤い鳥からハイファイセットの【ポップ】への変容はとてつもない怪物のような《痛み》を伴いながら、すべてのこの時代の人々の無意識の奥深く刻まれた。この70年代の変容の向こう側に何が待っていたのだろうか?・・POP音楽シーンではパンク=ニューウェイブということになるが、実際のところそれは雑多な文化であり、私たち同時代人の純粋型としては到底受け入れられることはなかった。ハイファイセットのあまりにも一般的な情緒をいったんは日常のどこかに引き寄せた心性が、90年代のロストジェネレーション、そして世紀があっけなく明けた0年代の【70年代リバイバル】に再生されていった。・・・《続く》
ハイファイブレンド 1977
https://youtu.be/-mQtO8V_p1Q?t=1713
今日という一日の始まりである。そして、いよいよ60歳代後半に入る。高齢単身者・低年金者であり、いまや人類の存立根拠を突き崩すかのように全世界を席巻するITネットによる【情報寡頭制】の電磁監視対象(被験)者である《自我》との融和(自律)を生涯のモチーフとする日常の一コマがいま再び動き出す。そんな私のごくありふれた生活過程において、日本近代の擬制的言語(表現)様式の一つである【俳句形式】はいかほどの価値を有するのだろうか。その擬制された近代の延長上にあって、もはや現存性のはなはだ薄いハイクなどというものが、この一瞬も何故かある種の威力を奮っている。夏石番矢句集『氷の禁域』(2017)である。実際、私はほぼ毎日この一冊をどこに行くにも持ち歩いている。だからと言って、手垢が付くぽどに読み込んでいるというわけではないが、少なくとも身体の一部のように親しみを感じ始めていることは確かである。例えば、集中に次のような一句が存在している。
古本市の金平糖のような時間にいる 第三章「雨に麻酔」
作者は私とほぼ同世代で、1970年前後に全世界に吹き荒れたカウンター・カルチャーによって《個》としての人間の一大進化に見舞われた。現在、彼の勤務先がある東京神田の古本屋街は、何かの書物を求めるでもなしに繰り返し訪れる異空間であり続けているに違いない。そのレトロな風趣の中に流れる《金平糖のような》時間とは、決して尋常な出来事ではない。金平糖とはどのようなものか、手許の電子端末で検索してみるとよい。それは淡い原色の角ばった実に懐かしさと親しみに満ち溢れていると同時に、もはやこの現実のどこにも見当たらない何ものかである。・・・《続く》