神とはありてあるもの大晦日 母死してまだ生きている大晦日 階上の騒音じつは無音大晦日 明日は晴れ少しは寒い大晦日 年詰まる巨大な夢を見ているか 大つごもり人間の無実主張せり 始皇帝は死なず大年の青深し 天皇とはまさに愛の人みそかの空 愛はかげろふカウントダウンの日となれり 餅搗きのまぶされてなほ無明なり
極月のSEKAI NO OWARIといふバンド あっけない恋の終末年用意 初恋はとうに破れて年用意 船団の句を眺望す年の果て 脱原発の県民投票年の果て 絶対に片付かぬもの年用意 俳人はただ馬鹿なだけ年用意 草競馬の勝敗つかず年用意 カセットのひふみよいむなや年了る きゃりーぱみゅぱみゅふうせんとわにしぼまない
1979年頃深夜放送の俳句コーナーで入選したのをキッカケに俳句に入門。坪内稔典氏の「現代俳句」、旧「俳句研究」などに投稿後「地表」同人。80年代中に句作を休止する。昨秋20数年ぶりにブログで再開。大学在学中は現代詩や作詞をやっていた。音楽制作を目指したことも。
21世紀の現在、俳句が存続していること自体が不思議。幸か不幸か生活上の必要性から毎日句を作って各誌に投稿しているが俳句史からは切れている。投稿先の各誌もすでに解体過程にある。私も最近参加した坪内氏の「船団」も何ものか不明な言葉らしきものの残骸を曝すだけだが不思議と悲壮感は見られない。ここまで書いてみてふと気付いたのだが、この空白感はそれぞれの内面にこそ向いている。外部に向かう方途はとうの昔に喪われている。その一人々々の他を寄せつけない空白感が〈俳句定型〉に盛られたときある種の純粋性を生み出すことに賭けているのかもしれない。
21世紀の現在、俳句が存続していること自体が不思議。幸か不幸か生活上の必要性から毎日句を作って各誌に投稿しているが俳句史からは切れている。投稿先の各誌もすでに解体過程にある。私も最近参加した坪内氏の「船団」も何ものか不明な言葉らしきものの残骸を曝すだけだが不思議と悲壮感は見られない。ここまで書いてみてふと気付いたのだが、この空白感はそれぞれの内面にこそ向いている。外部に向かう方途はとうの昔に喪われている。その一人々々の他を寄せつけない空白感が〈俳句定型〉に盛られたときある種の純粋性を生み出すことに賭けているのかもしれない。
大年のアレッポの空雲は無し 火をもって尊し東京の年迎へ ああインターナショナル冬薔薇は不発 年送るまだこの街を出たばかり コンビニの巨大な冬を信じたし スカスカの藤棚下の真白きもの やはり母はあなたでしたか冬あたたか 突きつめても無駄冬空が路地までも 小つごもりまだ靴ひもは結べない 年の瀬といっても青空は青のまま
何もなく誰も来なくて年用意 あっけらかんと別れの言葉年の果て 愛を下さいのカンノも嫁った年の暮 そこに母がいるだけで済む年用意 ホテルニューオオタニのレトルトカレー年迎え 愛されても何か足りない年の暮 エヴァンゲリオン観足りずにゐる年の暮 二十万の仮設灯され年用意 コーリャンタウンの絆の強さ年の果て 愛奪ふも詮無きことと年送る