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私は結社を批判しながら、一応2誌に同人参加している。但し、そのうち1誌は3月号で終刊になった。主宰は86歳であった。もう1誌は隔月刊の上、主宰は78歳である。とてもあと10年は持たないだろう。結社無しで俳句を続けられるのかどうか不安になる。そんな時、同人誌への誘いが舞い込んだ。代表者は私の2歳下である。これで手を打とうと思う。俳句は《座》の文芸とされる。その出自が連歌の発句(俳諧)にあるからであろう。しかし、明治期に入って近代文学の萌芽の中で、正岡子規は五七五の17音が自立した一行の短詩すなわち【俳句】としての再生を提起した。しかし、その表現の内実は【俳句結社】という主宰者と入門者の徒弟制度に支配されたものでしかなかった。21世紀のいまになっても、子規の提示した自立した個の言語表現(自由詩)などとても望めない状況と言わなければならないだろう。実は、もう1誌入門するかどうか迷っているところがある。しかし、終刊した結社同人の継承は断られた。また一から主宰者の一方的な《選句》という名の精神の収奪を受ける忍耐力はもう底をついている。結社活動は最小限に止め、同人誌などの結社とは無縁の人々の【俳句】の自立への飽くなきチャレンジ精神に賭けてみるのもいい。・・・《続く》
今日の結社句会は出るか出ないか迷い続けた。結局、出ないことに決めたが、その理由は①遠すぎる②年寄りばかり③お金がない、の3つである。所属(同人)結社に拘らなければ、他にも近場に出席可能な句会がある。もちろん、私は結社に所属していることなどに拘りはない。むしろ反感さえ持っている。俳句にとって結社は桎梏でしかないからだ。2つ目の年寄りばかりというのは言葉通りの意味ではなく、ちょっとばかり複雑な理由がある。私は決して若くはない。すでに還暦は過ぎた。しかし、それでも私が一番若い。一般社会では、とりわけ文芸ジャンルではあり得ないことだ。特に、60歳代後半から70歳前後の所謂【団塊の世代】においては、さらに年長の主宰に凭れかかるだけで、自分達に続く世代に対する責任感の欠片も見られない。自分たちの子(団塊ジュニア)や孫が俳句に関われない理由と自分らの関わる理由の落差など考えたこともないようだ。つまり、自分のことしか考えず傲慢なのだ。このような心性は、おのずと彼らの句作(内容)に直結している。俳句表現の主体としての自分への疑いがまるで無いのである。さらに、私は38年前の最初の入門時から、結社と同時に俳句総合誌への投稿を続けて来た。現在の2度目の入門にあたってもそのやり方は変わらないし、ますます拍車がかかっている。結社は俳句の進化の芽を摘むものでしかないことを知り抜いているからだ。句会や吟行などに貴重な活動資金を無駄使いする余裕は全くない。以上の理由により、今日の結社句会への出席は中止した。・・・《続く》
傷林檎君を抱けない夜は死にたし 北大路翼
傷林檎とは、傷が付いて誰も買う人のない林檎と解釈したい。誤解を恐れずあえて言えば、風俗嬢と呼ばれる女性のことではなかろうか。そこから【読み】というストーリーを組み立てると、作者はとある行き着けの風俗店に足を運んだのだろう。いつも指名するホステスは、この夜はあいにく別の客の接客中であった。この時の胸が焦げ付くような無念さが読む者にも伝わって来る。多少なりとも、同じ様な経験のある者には尚更であろう。この世に好き好んで風俗界に飛び込む女性はいない。一人の人間にとって、不特定多数の相手への恋愛感情は成り立ちようがない。ある時、特定の男性客が自分のことを気に入って、毎日のように通い詰めるようになった。その男性はいつかはこの苦界から彼女を救い出し、自分だけのものにしようと思っている。当のホステスも彼のことが気がかりでしょうがない。その素朴な感情の交錯を、下五の【死にたし】が恐ろしいほどの適確さで表現している。『君を抱けない夜』とは、作者にとって死さえ引き寄せてしまう、どうにも捨てがたい一瞬のいまここを指す。一読者としての私にとってもまた同様である。・・・《続く》
桜花賞を予想中の北大路翼氏。