まほろば俳句日記

毎日見たこと聞いたこと感じたことを俳句にします。JーPOP論にチャレンジ。その他評論・エッセー、学習ノート。競馬も。

古本市の金平糖のような時間にいる 夏石番矢/続夏石番矢句集『氷の禁域』を読む(3)

2019-12-03 04:14:54 | エッセー・評論

古本市の金平糖のような時間にいる   夏石番矢  第4章「雨に麻酔」(句集『氷の禁域』所載)より

東京神保町の古本屋街で、毎年秋頃街ぐるみの【古本市】が開催される。中には短歌俳句専門店もあるので、東京在住の読者の中には常連の人も多いだろう。作者はその近辺の大学の教員であるが、講義の合間にふらりと立ち寄った際の感慨を上手く一句に仕上げたなどと安直に考えるならとんでもないしっぺ返しを受けることになる。「金平糖のような時間」とは、古本のすえた臭いに引き寄せられた異空間の中心に迷い込んだ作者の非人称型の【現実】に他ならない。夏石氏より2歳上、その妻で吟遊誌の編集人を務める鎌倉氏よりは1歳下で、私は2人と1970年代という同時代に青春期を送った者である。この同時代というものは、とんでもないブラックホールのような死臭を放つ特異な時代だった。

振り返ろうとしても、何かにはぐらかされるように主体も目的も無いまま前へと進まされ、その沼地のような《全体》の切れ端とバラバラに同置され、ただの敗残者に貶められてしまう。空っぽでありながら得体の知れない粘着力の日々強まってゆく《時間》の累積だけが眼の前に立ち塞がる。私たちは1980年というどれほどのぶ厚さを持つか窺い知れない【ポストモダン】という《時間》の壁の前でただ無様に口をポカンと開けながら佇んでいた。・・・《続く》

 

リラクゼーション

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裏切らない酒とフトンは永遠の友/一句観賞~新北大路翼を読む(1)

2019-11-29 05:42:22 | エッセー・評論

裏切らない酒とフトンは永遠の友   北大路翼   NHKBSスペシャル「ラスト・トウキョウーはぐれ者たちの新宿歌舞伎町」(‘19・11/28NHK総合放送)

ウオッシュレットの設定変えた奴殺す  〃

昨年の2月から今年の春頃までの新宿歌舞伎町で、体調悪化のためグラスを持てないほどの状況下での一句。北大路さんは、グレかかっていた神奈川県立横浜高校時代に同校の国語教師で担任だった俳人今井聖(元寒雷副編集長)に出逢い、自己回復の手段として俳句に目覚めたという。卒業後、新宿歌舞伎町に住むようになり、日雇いなどで稼いだ金でギャンブル予想や風俗通いを続けるなど、裏ぶれた日々を送っていたようだ。その途上で、今井さんの「」誌創刊に参加。30歳代に入って、初めて就職も果たしたが、相変わらず歌舞伎町でのDEEPな放蕩暮らしは止まることはなかった。同時に歌舞伎町の老朽化した雑居ビル(ゴールデン街の外れか?)の一角で【砂の城】なる俳句コミュニティ(1階はアングラバー)を結成。その仲間はB級ホスト・ホステス、ニート・引き籠りなどの若者たちで占められ、新宿歌舞伎町俳句一家【屍派】を名乗るに至る。この間、北大路の2冊の個人句集に続き、これらの仲間たちの句群を集めた『新宿アウトロー俳句』を発刊。俳句の世界では異例のベストセラーを続けている。・・・《続く》

 

 

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新しい定型詩を生み出すちからー第10回世界俳句コンファレンスに参加して

2019-09-25 03:59:37 | エッセー・評論

俳句を学ぶことは世界を学ぶこと。これまで私の俳句とは、日常の限られた生活空間に押し込められ逼塞したものに過ぎなかった。俳句形式で日々《詩》を書くことの窮屈さからしばし開放され、世界18ヶ国から集った人々の俳句に賭ける言いようの無い熱気に包まれていた。この日、東京御茶ノ水のレトロな佇まいの学士会館で開催された【世界俳句コンファレンス】は、まさに21世紀世界の縮図だった。

その御茶ノ水駅前にある東京ハリストス復活教会(ロシア=ギリシャ正教)の正式信者の知人に、外国人の抱くであろう【俳句】に対するイメージを聞いてみた。彼は板橋生まれの日本人で俳句については全くの門外漢だが、仏語に習熟するなどなかなかの国際派で、以前ルーマニアやモルドバなどの東欧諸国でも俳句は有名であるとの情報を得ていた。この日の大会にもブルガリアとハンガリーから参加者があった。彼らはいったいなぜユーラシア大陸の東の果てにある日本などという島国に発生した【俳句】に特別の関心を持つのだろうか?彼が言うには、西欧やイスラム圏の詩文芸は旧約聖書のダビデなどの時代の預言詩に発する【詩篇】に起源を持ち、現代においてもその影響は甚大であるとのこと。にもかかわらず、日本近世文学の【松尾芭蕉】の一見無媒介で即物的とも映る写実的表現に【神のいない】または、それが不用な未来世界もしくは【キリスト再臨】後の理想社会(「千年王国」)へのある種の渇望があるのではないかということだった。

この画期的な大会に於いていくつかの大きな発見があった。まず、日本と比較的近いアジアの人々に《俳句》と《芭蕉》はどう映ったのか。俳句は江戸時代の半ば近くに、連歌の俳諧の発句《五七五》を独立させ、わずか17音の中で《や・かな・けり》などの切字を駆使して、従来の詩歌の世界に革命を起した。そこに詠まれる内容も、当時世界有数の大都市だった江戸・大阪の世俗事にまで拡大し、武士のみならず庶民にまで愛好された。しかし、その中でも独自の自然の中の人間観を追求した【芭蕉】に対する賞賛の声が会場の隅々にまで湧き起こった。これがいったい何であるかという問いが、私の胸の奥底に生じた。とりわけ、中国の漢字文化圏にあって【漢字】ではない、独自の【民族言語】を持つ内モンゴルの人々の勇壮な短詩(三行型式)の朗詠には背筋が寒くなるほどだった。他にもサンスクリット語を彷彿とさせるネパール語による俳句に対する旺盛な学習意欲には畏敬の念さえ感じた。彼らは今秋、芭蕉生誕の地伊賀をグループで訪れるとのこと。芭蕉の【奥の細道】の枕詞の再生の旅に、自身の21世紀世界の一員としてのあるべき姿を重ねているようだ。欧米の人々は、やはり世代的に【ニューエイジ】の地球自然ガイアのイメージを《芭蕉》と超民族言語としての【世界俳句】に仮託しいるのだろう。それは、私たちが近代俳句の【定型性】の呪縛をあっけなく打ち破る《普遍的自然》の恩寵に満ちた在処を指し示しているのかもしれない。

なぜ今、芭蕉を読むのか。「なぜ芭蕉を読むか」と問うのは、「なぜ息をするのか」と問うのと同じです。生き続けるためというのが、私がたどりついた唯一の答えです。生き抜くために読むのです。 ―スコット・ワトソン


俳句の《世界性》は可能か?・・1970年世代の空無感を重ねる*夕カフェ付/続夏石番矢句集『氷の禁域』を読む(2)

2019-06-10 18:13:19 | エッセー・評論
夏石番矢の世界俳句に一歩でも近づく前に、私自身の立地点を再確認しておきたい。
 
①私は1979年に句作を始め、伝統派から前衛派への移行を体験しつつ、俳句(言語)表現そのものの限界を感じながら1985年には休止した。結社同人も辞退した。
②ほぼ同世代の(参加同人誌の)代表らと邂逅したのはその頃で、代表はその後も句作を続けた。その営為は10句集以上に及ぶ。
③2013年7月にネットを起ち上げ、同年10月からブログ上で句作を約30年ぶりに再開した。謂わば浦島太郎状態だった。
④代表は【世界俳句】を提唱し、既存の俳句(近代詩の一形式としての)とも俳壇(座の偽装もしくは再生)とも根本的に違う独自の無国境かつ超言語の短詩としての《俳句》の普及活動を展開しつつ、国内外に全く新しい【俳句概念】を提起している。・・・《続く》
 
 
 
 
 
 
 
 
カフェ・ミュージック 

新たな神に代わる存在とは?/続夏石番矢句集『氷の禁域』を読む(1)

2019-06-09 20:11:03 | エッセー・評論

夏石番矢の2018年初めにインドの出版社から出された日英併記のバイリンガル句集『氷の禁域』は表題の「氷の禁域」を第一章とし、全15章からなる一大句集である。1章47句を一通り何とか読み込むだけでも4号分の掲載を要した。この回を最後にまとめることなど到底おぼつかない。それでも自分なりに何某かのことを書き止めて区切りを付けなければならない。そこで、吟遊79号の鈴木比佐雄氏の巻頭評論を読み直し、気になった点などについて感想を述べることから始めてゆきたい。・・・《続く》

 

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