犬や鳥の育て方なんて本は本屋にいけば簡単に手に入る。
なのに、人間の育て方は流派が別れに別れ、どれが決定打なのかよくわからない。
ともなれば、親は錯綜している情報を取捨選択して、一人の人間を育てていかなくてはならない。
ワタシより先にいく人類の先端を育てるのに、経験不足で自分のこともままならない小さなワタシの器で事たりるのだろうか。
子育てに言われているのが、母親の愛情がどうとか、誉めましょうとか躾ましょうとか、心理面からの話に異様に片寄る。
いや
そういうんではなくて。
モヤモヤしつつも、もっと本質的な事を、
と、常々思っていたんだと思う。
自然食やら穀物菜食やら自然療法やらにはまり、シュタイナーの本をむさぼり読み、
そうこうしているうちに、長男は六歳、長女四歳、次女一歳半のとき、ある保育園に、出会った。
確か年末の寒い時期に、子供たちは、半袖半ズボン。
それより印象的だったのは、保育者の大人が半袖と素足に草履だったことだ。
斎藤公子
よく知らない。
でも、何もない土の園庭に土の斜面。園舎は外側から見るかぎり、工事現場のプレハブだった。
子供たちは半分斜面の園庭を、鬼ごっこなのかかけっこなのか、縦横無尽に駆け回っている。
そのとき園児は十人いたかいないか。無認可の保育園がこの工事現場のプレハブ兼ゴミ捨て場跡を、保育のできる状態にして引っ越してきてからまだ三ヶ月、とのことだった。
その十人弱の子供たちは、昨今見ないような鼻水のたらしっぷりで泥だらけになって半裸で遊んでいる。
ちょっと懐かしい感じ。
自分の子供時代みたい。公園さえもない山で育ったので、遊具のない土だけの園庭が懐かしい感じだなぁ、と思った。
テンションが上がりつつある私の横で、ふと気がつくと四歳の長女が固まっている。
あれ?泥に触れない?
長男が小さな頃は茨城に住み、畑を借りていたので子供は泥んこ遊びが大好きなものだとばかり思っていた。
しかし、その元気な長男を追いかけ回すのに必死で、二歳下の長女はいつも私の背中にくくりつけられていたんだろうか。
まずい。
これは大変に大きなことに感じられた。
自由への教育
自由に教育するのではなくて、
自由に生きられるように教育せねばならないのに。
泥が嫌だ、が理由で、やりたいことに制限がでれば、それは相当に不自由な人生になる。
泥とか虫とか、動物の毛並みとか匂いとか、
例えばそのようなモノたちと隔絶された人生なんて不幸以外の何者でもない。
なぜなら、人間はそれの一部だから。
あの日は全然知らなかった斎藤公子の保育理論は、まさにそれを言っている。
個体発生は系統発生を繰り返す。
自分のルーツを否定し受け入れられない、それが人生のスタート地点。そんな子供時代を子供にプレゼントしたくはない。
幸いな事に、公開保育が終わるまでの短い時間の中で、娘は泥遊びに慣れ、
また、ここに来たい!
と、言った。
来たい、どころか、それから10年その保育園にドップリハマる事になるとは、その日は思いもしなかったのだが。
斎藤先生の保育理論が、保育園などの組織の中で実践されていく場合の捉え方と、
子を持つ一人の母親としての私個人の捉え方と差があるかもしれない。
私が書けるのは、
母親が捉えた保育理論と実践。
いや全然違いますよ。と、専門家からは言われてしまうかもしれない。
それでも、待ったなしで子供に対峙する母親のポジションというのは相当にでかい。
なにかに遠慮することなく、私が捉えた保育理論をしばらく書いていこうと思う。
質問等あればコメントお願いします。答えるような記事を書いていければと思っています。
なのに、人間の育て方は流派が別れに別れ、どれが決定打なのかよくわからない。
ともなれば、親は錯綜している情報を取捨選択して、一人の人間を育てていかなくてはならない。
ワタシより先にいく人類の先端を育てるのに、経験不足で自分のこともままならない小さなワタシの器で事たりるのだろうか。
子育てに言われているのが、母親の愛情がどうとか、誉めましょうとか躾ましょうとか、心理面からの話に異様に片寄る。
いや
そういうんではなくて。
モヤモヤしつつも、もっと本質的な事を、
と、常々思っていたんだと思う。
自然食やら穀物菜食やら自然療法やらにはまり、シュタイナーの本をむさぼり読み、
そうこうしているうちに、長男は六歳、長女四歳、次女一歳半のとき、ある保育園に、出会った。
確か年末の寒い時期に、子供たちは、半袖半ズボン。
それより印象的だったのは、保育者の大人が半袖と素足に草履だったことだ。
斎藤公子
よく知らない。
でも、何もない土の園庭に土の斜面。園舎は外側から見るかぎり、工事現場のプレハブだった。
子供たちは半分斜面の園庭を、鬼ごっこなのかかけっこなのか、縦横無尽に駆け回っている。
そのとき園児は十人いたかいないか。無認可の保育園がこの工事現場のプレハブ兼ゴミ捨て場跡を、保育のできる状態にして引っ越してきてからまだ三ヶ月、とのことだった。
その十人弱の子供たちは、昨今見ないような鼻水のたらしっぷりで泥だらけになって半裸で遊んでいる。
ちょっと懐かしい感じ。
自分の子供時代みたい。公園さえもない山で育ったので、遊具のない土だけの園庭が懐かしい感じだなぁ、と思った。
テンションが上がりつつある私の横で、ふと気がつくと四歳の長女が固まっている。
あれ?泥に触れない?
長男が小さな頃は茨城に住み、畑を借りていたので子供は泥んこ遊びが大好きなものだとばかり思っていた。
しかし、その元気な長男を追いかけ回すのに必死で、二歳下の長女はいつも私の背中にくくりつけられていたんだろうか。
まずい。
これは大変に大きなことに感じられた。
自由への教育
自由に教育するのではなくて、
自由に生きられるように教育せねばならないのに。
泥が嫌だ、が理由で、やりたいことに制限がでれば、それは相当に不自由な人生になる。
泥とか虫とか、動物の毛並みとか匂いとか、
例えばそのようなモノたちと隔絶された人生なんて不幸以外の何者でもない。
なぜなら、人間はそれの一部だから。
あの日は全然知らなかった斎藤公子の保育理論は、まさにそれを言っている。
個体発生は系統発生を繰り返す。
自分のルーツを否定し受け入れられない、それが人生のスタート地点。そんな子供時代を子供にプレゼントしたくはない。
幸いな事に、公開保育が終わるまでの短い時間の中で、娘は泥遊びに慣れ、
また、ここに来たい!
と、言った。
来たい、どころか、それから10年その保育園にドップリハマる事になるとは、その日は思いもしなかったのだが。
斎藤先生の保育理論が、保育園などの組織の中で実践されていく場合の捉え方と、
子を持つ一人の母親としての私個人の捉え方と差があるかもしれない。
私が書けるのは、
母親が捉えた保育理論と実践。
いや全然違いますよ。と、専門家からは言われてしまうかもしれない。
それでも、待ったなしで子供に対峙する母親のポジションというのは相当にでかい。
なにかに遠慮することなく、私が捉えた保育理論をしばらく書いていこうと思う。
質問等あればコメントお願いします。答えるような記事を書いていければと思っています。