阪神淡路大震災から30年の節目を迎えた。身近なところで経験した初めての都市直下地震だったので衝撃だった。どのテレビも1週間ほど前から関連する話題を多く取り上げている。ジムでもあちらこちらで当時の話をしている人を多く見かけた。30年前、いろいろな形で震災と向き合っていたのだと認識を新たにした。
我が家でも当時のことが話題になった。私は朝練をしていたので6時に起きていた。その前に少し揺れを感じた程度で妻や子供たちは夢の中にいた。リビングに下りて6時のNHKニュースを見ようとスイッチを入れると地震発生時の京都支局の部屋の様子が繰り返し流されていた。その時はまだ情報が少なく「近くで地震があったんや」という程度の認識で7時前に職場に向かった。車中でラジオのニュースを聞いているうちに「これは大変なことになっている」と心がざわついてきたことなどを初めて息子に話した。
息子は大阪市内の高校へ行っていたので結構大変だったと話した。「そうか まだ高校生やったんや」とつぶやいた瞬間、「私はいくつだったのか?」という問いが浮かび「73-30=43」という数字が出た。「おいおいあの時の私はお前さんより若かったんや!」と驚きの声を上げた。46歳の息子は何を言っているんだという顔をしていたが、30年という歳月の長さをそういう形で実感できた。
すると今度は、亡き父のことに思いを馳せた。大正13年1月17日生まれだからちょうど71歳の誕生日に阪神淡路大震災が起こったことになると、30年後の今、初めて認識した。今の私より2歳も若かった。急に、近況報告集「いきがい」に何を書いたのだろうと読みたくなった。
戦後五十年の節目の年に同窓生、森岡清美氏の著書「若き特攻隊員 ・阪神淡路大震災
と太平洋戦争」を読む機会を得た。 ・地下鉄サリン事件
若き特攻隊員が出撃を前に、親、兄弟、恋人などへの思いを切々と ・第一回今年の漢字は震
綴った手記をもとに、特攻の真実の姿を後世に残すべく、彼らの群像 ・公立学校第二第四土曜休
を描いた本著に深い感銘を受けると共に、同じ決死の世代に生き残っ
た者のひとりとして、日々精一杯生きていこうと思う昨今である。 (平成7年・第13号)
記憶の底に沈んでいたものが、ふとしたことで浮かびあがってくる。そのことが自分の歩みを振り返り、これからの歩む道を考える時間を与えてくれる。
我が家でも当時のことが話題になった。私は朝練をしていたので6時に起きていた。その前に少し揺れを感じた程度で妻や子供たちは夢の中にいた。リビングに下りて6時のNHKニュースを見ようとスイッチを入れると地震発生時の京都支局の部屋の様子が繰り返し流されていた。その時はまだ情報が少なく「近くで地震があったんや」という程度の認識で7時前に職場に向かった。車中でラジオのニュースを聞いているうちに「これは大変なことになっている」と心がざわついてきたことなどを初めて息子に話した。
息子は大阪市内の高校へ行っていたので結構大変だったと話した。「そうか まだ高校生やったんや」とつぶやいた瞬間、「私はいくつだったのか?」という問いが浮かび「73-30=43」という数字が出た。「おいおいあの時の私はお前さんより若かったんや!」と驚きの声を上げた。46歳の息子は何を言っているんだという顔をしていたが、30年という歳月の長さをそういう形で実感できた。
すると今度は、亡き父のことに思いを馳せた。大正13年1月17日生まれだからちょうど71歳の誕生日に阪神淡路大震災が起こったことになると、30年後の今、初めて認識した。今の私より2歳も若かった。急に、近況報告集「いきがい」に何を書いたのだろうと読みたくなった。
戦後五十年の節目の年に同窓生、森岡清美氏の著書「若き特攻隊員 ・阪神淡路大震災
と太平洋戦争」を読む機会を得た。 ・地下鉄サリン事件
若き特攻隊員が出撃を前に、親、兄弟、恋人などへの思いを切々と ・第一回今年の漢字は震
綴った手記をもとに、特攻の真実の姿を後世に残すべく、彼らの群像 ・公立学校第二第四土曜休
を描いた本著に深い感銘を受けると共に、同じ決死の世代に生き残っ
た者のひとりとして、日々精一杯生きていこうと思う昨今である。 (平成7年・第13号)
記憶の底に沈んでいたものが、ふとしたことで浮かびあがってくる。そのことが自分の歩みを振り返り、これからの歩む道を考える時間を与えてくれる。