素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

大寒

2025年01月20日 | 日記
 今日は「大寒」。1年でもっとも寒さが厳しいころといわれているが、今年は春を思い起こすような寒のゆるみとなった。1週間前と同じ服装で出歩くと汗ばんでくる。庭仕事をするする音があちこちから聞こえてくる。17時を過ぎてもまだ太陽が西の空にあることも加え、だんだん春になっていくんだという気持ちになってくる。枯れ木の枝の芽のふくらみにもそれを感じる。ジムでも「三寒四温ですな」とみんなの顔もほころぶ。

 自然界は春に向かって着々と歩んでいるが、人間界は大寒どころか極寒という感じ。世界各地で起こっている出来事に心が冬眠したがっている。ニュースを見る気持ちが失せている。

 こういう時は、
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常(しよぎやうむじやう)の響(ひびき)あり。沙羅双樹(しやらそうじゆ)の花の色、盛者必衰(じやうしやひつすい)の理(ことわり)をあらはす。おごれる人も久しからず、唯(ただ)春の夜(よ)の夢のごとし。たけき者も遂(つひ)にはほろびぬ、偏(ひとへ)に風の前の塵(ちり)に同じ。遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高(てうこう)、漢の王莽(わうまう)、梁(りやう)の周伊(しうい)、唐(たう)の禄山(ろくさん)、是等(これら)は皆旧主先皇(きうしゆせんくわう)の政(まつりごと)にもしたがはず、楽(たのし)みをきはめ、諫(いさめ)をも思ひいれず、天下(てんか)の乱れむ事をさとらずして、民間の愁(うれう)る所を知らざツしかば、久しからずして、亡(ぼう)じにし者どもなり。近く本朝をうかがふに、承平(しようへい)の将門(まさかど)、天慶(てんきやう)の純友(すみとも)、康和(かうわ)の義親(ぎしん)、平治(へいぢ)の信頼(のぶより)、此等(これら)はおごれる心もたけき事も、皆とりどりにこそありしかども、まぢかくは六波羅(ろくはら)の入道前太政大臣平朝臣清盛公(にふだうさきのだいじやうだいじんたいらのあつそんきよもりこう)と申しし人の有様(ありさま)、伝へ承るこそ、心も詞(ことば)も及ばれね。」
を一日一回声を出して読む。
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交野郷土史かるた

2025年01月19日 | 日記
今日、13時30分より武道館2F和室で、交野古文化同好会の主催で「親子で楽しむ郷土史かるた大会」が開催された。妻が、広報レポーターの仕事で取材に行ってきた。帰ってきて様子を聞きながらもらった資料を見ていると、最後の【京】の札に目が留まった。
「 京へ五里 大阪へも五里」
 次のような解説があった。
いまは、あらゆる情報があふれ、世界のどこからでもリアルタイムに最新情報をキャッチすることができます。
しかし、我が国では、19世紀まで生活必需品の多くは船や牛馬によって運ばれ、耳寄りな話は人の口から口へ伝えられていたのです。
だから、交通の便の善し悪しで情報伝達の遅速が生じたのです。

京都と大阪の中間に位置した交野地方は、人の往来がひんぱんでしたから、必然的に各地の話題がもたらされ、珍しいものが伝達されました。

交野は京都と大阪へ夫々20キロ離れ、中間点に位置していたことが、かえっていずれの文化圏にも偏ることなく、独特の文化を醸成させたのではないかと見られています。

古くは、宮廷人の遊猟の場や和歌作りの吟行の地として脚光を浴びていました。
また、星を崇めた都人の思いが伝承されていることも周知の事実です。
稲作文化の伝来や天の川沿岸の条里制などは、交野市が誇ることが出来る文化遺産です。


 授業で、線分の垂直二等分線(=2点から等しい距離にある点の集まり)の作図をやった時のことをふと思い出した。大阪、京都、奈良の庁舎を結んで三角形を作り、各辺の垂直二等分線を作図すると枚方(交野ケ原)で交わる。(=外心)大阪、京都、奈良という古くから経済、文化の中心だった所から五里(約20km)の地点に位置するということを実感できる作図だと気に入っている。懐かしくもあり、久々にコンパスを引き出しから取り出しやってみた。


 ローカルなものだが、よくできているかるただと思う。
交野郷土史かるた

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伏見五福めぐり

2025年01月18日 | 日記
 京都・伏見を代表する5社寺を巡る新春イベント「伏見五福めぐり」は終わったが、あまりの好天に室内で過ごすのももったいないと自転車で巡ってみることにした。朝、所用があり出発できたのは10時35分だった。最初の目的地は藤森神社。第二京阪道路の側道をひたすら走る。第1ポイント木津川にかかる新木地川大橋には11時50分に着いた。1時間で来る予定だったが15分オーバー。久御山ジャンクショを含め交差する道路は人口美の極みだと思う。第2ポイントの宇治川にかかる巨椋大橋には12時25分。2つの川を渡り終わるとホッとするとともに心のギアが切り替わる。
  
藤森神社には13時25分に到着。ここから南に下って大黒寺・御香宮神社・乃木神社・長建寺と巡った。長建寺を出発したのが15時。そもそものスタートが遅かったため寺田屋や酒蔵巡りをする時間的余裕がなく日没までに家に着こうと落ちる夕日との競争となった。日没とほぼ同時の17時15分に帰宅。さすがに足はパンパンとなったが、久しぶりに全力を出した感があり心はスカッとした。

伏見五福めぐり
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30年

2025年01月17日 | 日記
 阪神淡路大震災から30年の節目を迎えた。身近なところで経験した初めての都市直下地震だったので衝撃だった。どのテレビも1週間ほど前から関連する話題を多く取り上げている。ジムでもあちらこちらで当時の話をしている人を多く見かけた。30年前、いろいろな形で震災と向き合っていたのだと認識を新たにした。

 我が家でも当時のことが話題になった。私は朝練をしていたので6時に起きていた。その前に少し揺れを感じた程度で妻や子供たちは夢の中にいた。リビングに下りて6時のNHKニュースを見ようとスイッチを入れると地震発生時の京都支局の部屋の様子が繰り返し流されていた。その時はまだ情報が少なく「近くで地震があったんや」という程度の認識で7時前に職場に向かった。車中でラジオのニュースを聞いているうちに「これは大変なことになっている」と心がざわついてきたことなどを初めて息子に話した。

 息子は大阪市内の高校へ行っていたので結構大変だったと話した。「そうか まだ高校生やったんや」とつぶやいた瞬間、「私はいくつだったのか?」という問いが浮かび「73-30=43」という数字が出た。「おいおいあの時の私はお前さんより若かったんや!」と驚きの声を上げた。46歳の息子は何を言っているんだという顔をしていたが、30年という歳月の長さをそういう形で実感できた。

 すると今度は、亡き父のことに思いを馳せた。大正13年1月17日生まれだからちょうど71歳の誕生日に阪神淡路大震災が起こったことになると、30年後の今、初めて認識した。今の私より2歳も若かった。急に、近況報告集「いきがい」に何を書いたのだろうと読みたくなった。

 戦後五十年の節目の年に同窓生、森岡清美氏の著書「若き特攻隊員   ・阪神淡路大震災
と太平洋戦争」を読む機会を得た。                  ・地下鉄サリン事件
 若き特攻隊員が出撃を前に、親、兄弟、恋人などへの思いを切々と   ・第一回今年の漢字は震
綴った手記をもとに、特攻の真実の姿を後世に残すべく、彼らの群像   ・公立学校第二第四土曜休
を描いた本著に深い感銘を受けると共に、同じ決死の世代に生き残っ    
た者のひとりとして、日々精一杯生きていこうと思う昨今である。    (平成7年・第13号)


 記憶の底に沈んでいたものが、ふとしたことで浮かびあがってくる。そのことが自分の歩みを振り返り、これからの歩む道を考える時間を与えてくれる。
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朗読グループ「あい」の30周年記念行事『尺八と箏の和楽器コンサート』へ

2025年01月16日 | 日記
 視覚障害のある方々に音訳で情報を伝える活動をしている朗読グループ「あい」の30周年記念行事が、1月16日(木)13時30分から 交野市ゆうゆうセンター4階多目的ホールで開催された。もともとは『尺八とピアノのデュオコンサート』だったが、ピアノの方の都合が急きょ悪くなり箏に変更となった。
 
 リーダー久田さんの挨拶、交野市社会福祉協議会会長前波氏の来賓祝辞、朗読グループ「あい」の活動紹介の後14時よりコンサートが始まった。
 
琴古流尺八本曲(江戸時代)「鹿の遠音」を演奏しながら安田さんが登場。 

 途中休憩15分をはさんで15時25分まで、尺八演奏者安田氏の分かりやすく親しみのある解説(MC)をまじえて、箏(尺八)の折本氏との演奏は聴きごたえがあった。
   
 100名の定員だったところ希望者が多く席数を増やし、当日は約150名の人が和楽器の音色を堪能した。「こんなに表現力が豊かなのだ」私が持っていた尺八の概念が壊さた。
 実行委員長の神原さんの挨拶で予定通り閉会。中身の濃い2時間であった。自分の思い込みや視野の狭さを痛感しつつ会場を後にした。
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