素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

父の死①

2021年01月26日 | 日記
 ブログ空白の6年間で、身の回りの一番大きな出来事は父の死であった。手始めにそのあたりのことを振り返ってみようと思う。

2016(平成28)年10月に、小冊子【三重県退職校長会の近況報告集『いきがい』に見る 退職後の父のあゆみ】を作った。その3年ほど前から実家に戻るたびに父の身体的な衰えを強く感じるようになった。冊子の「はじめに」と「平成25年~28年」の部分を読んでもらえれば伝わるかな?

は じ め に
 父が退職をした昭和58年に、三重県退職校長会の近況報告集『いきがい』の発刊が始まった。したがって父は2号からの参加である。応接間の本棚には2号から34号までがきちっと並べられている。几帳面さだけは誰にも負けない。3号だけは近況報告集ではなく各支部活動の報告で2枚の紙を二つ折りにした簡単な新聞だがそれもきちっと保管されている。
                   
近況報告を毎年欠かさずに投稿してきたのも几帳面な父らしい。葉書き1枚で送る200字足らずの文だが30余年継続すると値打ちが出てくる。

『いきがい』を今流行りの生前整理とかで、ひもでくくって片付けてしまうのは惜しいと思い、小冊子にまとめることにした。合わせてその年の出来事も併記してみた。これは私の趣味(=いきがい)である。父の知らなかった側面を垣間見ながらの大変楽しい作業となった。

平成28年以後に8つの空欄をあえて作っておいた。その心は百歳まで投稿して欲しいという願いである。

こういうことを言うと、困った様な顔をして「もう今年の冬は越せない」と苦笑いするだろう。

 しかし、日野原重明さんは105歳で『僕は頑固な子どもだった』という自叙伝を著した。「一〇三歳になってわかったこと」という年間大ベストセラーの著者・篠田桃紅さんは雑誌ハルメクに「ほんの無駄話」という連載を始めている。脚力は落ちても思考力、記憶力は負けていないと思う。この続編をつくることを楽しみにしている。
父とかかわりのあった方々が、『退職後の父のあゆみ』を読まれてふと何かを感じて下されば嬉しい限りです。   2016年10月

  
 昨年夏頃から足が痺れて歩行まゝならず脊柱管狭窄症と診断された。し 
かし、手術は術後のリスクを考え断念した。以後整形に通院、リハビリが 
日課。気が向けば絵筆を取り、読書三昧と気儘な日々を過ごしている。  
 “いきがい”投稿の矢先、伊勢市在住の同級生T君の訃報を知った。毎 
年心に残る彼の記事を読む楽しみがなくなり心淋しく哀情の念に堪えない。
                              合掌(平成25年・第31号)
        ♦       ♦       ♦
 本年一月、九十歳になりました。足の筋力の衰えがひどく、歩行ままな 
らぬ毎日を送っております。                     
 幸い自動車を運転出来る家内に支えられ、そこそこどうにか元気に過ご 
しています。                            
 皆様の投稿される「いきがい」を読む日を楽しみにしています。    
                      (平成26年・第32号)
 
 本年一月、九十一歳になりました。足の筋力が衰える一方、要介護1の 
認定を受け、週一の訪問看護の生活をしています。           
 唯一の楽しみは夕食時焼酎湯割り一杯の晩酌、しばしうたた寝が、至福 
のひと時です。                          
 私にとって、まさに酒は百薬の長の思いです。 (平成27年・第33号)
        ♦       ♦       ♦
 九十二歳も半ばを過ぎました。歩くのが不自由になり困る事が多くなっ
ています。内科的には異状なく、どうにか毎日が過ぎていく感じです。
 “いきがい”の配布が待ち遠しく、皆様の記事を読むのを楽しみにして
います。                   (平成28年・第34号)
        ♦       ♦      

 父には無断で作ったので出来上がった冊子を見せると戸惑ったみたいだ。作るのならもっときちっとした自分史的なものが良かったみたいだ。私には言わなかったが母には不満をこぼしたみたいだ。知らぬふりをして「最近は、つぶやき文化になってきたから、こんな気楽なのもいいんと違うか?」と言って、極々親しい人たちに渡した。
コメント
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