亡くなってから5年ほど空家になっていた知人の家の前を久しぶりに通ると家が取り壊され更地になっていた。庭でできた野菜や果実を届けていただいていただけに何もかもが無くなった空間を見ると寂しさに再び襲われた。
こういう時は、いつも唐代の詩人、劉希夷の「白頭を悲しむ翁に代わりて」と題する詩の中の一節が浮かんでくる。
古人(こじん)復(また)洛城(らくじょう)の東に無く
今人(きんじん)還(また)対す落花の風
年年歳歳花相似たり
歳歳年年人同じからず
言(げん)を寄す全盛の紅顔の子
応(まさに)憐(あわれ)むべし 半死の白頭翁(はくとうおう)
「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」。自然の悠久さと人間の生命のはかなさを対峙させて人生の無常を詠歎した句である。「らんまん」の大詰めで流れる空気にも通じる。
そんなことを考えていたら去年花の時期から実がなり落ちる時期までゴミ出しのたびに観察していた栗の木ことに思いが行った。今年はまったく気に留めずに過ごして来た。「どうなんだろう?猛暑の影響受けているかな?」と確かめたくなった。
栗の木は、私が関心を寄せていてもいなくても同じように立派な実をつけていた。それは当たり前のことだがなぜかしみじみとした気持ちになった。

こういう時は、いつも唐代の詩人、劉希夷の「白頭を悲しむ翁に代わりて」と題する詩の中の一節が浮かんでくる。
古人(こじん)復(また)洛城(らくじょう)の東に無く
今人(きんじん)還(また)対す落花の風
年年歳歳花相似たり
歳歳年年人同じからず
言(げん)を寄す全盛の紅顔の子
応(まさに)憐(あわれ)むべし 半死の白頭翁(はくとうおう)
「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」。自然の悠久さと人間の生命のはかなさを対峙させて人生の無常を詠歎した句である。「らんまん」の大詰めで流れる空気にも通じる。
そんなことを考えていたら去年花の時期から実がなり落ちる時期までゴミ出しのたびに観察していた栗の木ことに思いが行った。今年はまったく気に留めずに過ごして来た。「どうなんだろう?猛暑の影響受けているかな?」と確かめたくなった。
栗の木は、私が関心を寄せていてもいなくても同じように立派な実をつけていた。それは当たり前のことだがなぜかしみじみとした気持ちになった。

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