会社の同僚と話していると、
狭い世界、会社の同僚の世界、価値観は
世間でも通用するような気がしてくる。
だけど、実際はもっと多様性があって
複雑で理解しなければいけないことは多い。
だけど、機会があまりないのだ。
自分はテニスに行ってるおかげで、
違う年代の人の考え方や、本音を聞くことができる。
だけど、同僚、後輩と話していると、
自分の世界(論理、ものの考えかた、とらえ方、判断)が全ての世界で
通じるのだといわんばかりの論調で話す人もいる。
狭い世界に生きる。
すなわち自分の家と会社を往復し
後は同じような環境の友達、同僚、
話す人が固定されている世界。
そこには統一性は取れるし、話も早いだろうが、
柔軟性や普遍性はあまり育たない。
「~が、デフォルトだろ?」
という物言い自体が、世界の中では特殊であり
狭い世界に属しているのだということ。
不思議なことに、これほどツールが発達して、
いろいろな人とコミュニケーションも取れるし、
世界に出てゆけるし、いろんな体験もできるというのに、
結局はその有利な条件(現在の日本に生きているということ)を捨て
ゲーセンに通ってみたり、酒飲んでTV見てばかりだったり。
いつも考えておかねばならないこと。
自分の考え方、感じ方、論理は個人の中では自由である。
だけど、それが皆に通用するとは限らない。
会社の同僚と話すとき、会社の中の、技術に携わるものの立場として話している。
そのことをしばしば忘れ、世間の皆が同じように考えていると考えてしまうこと。
そのことが、危険であると、いつも自分に警告する。
狭い世界、会社の同僚の世界、価値観は
世間でも通用するような気がしてくる。
だけど、実際はもっと多様性があって
複雑で理解しなければいけないことは多い。
だけど、機会があまりないのだ。
自分はテニスに行ってるおかげで、
違う年代の人の考え方や、本音を聞くことができる。
だけど、同僚、後輩と話していると、
自分の世界(論理、ものの考えかた、とらえ方、判断)が全ての世界で
通じるのだといわんばかりの論調で話す人もいる。
狭い世界に生きる。
すなわち自分の家と会社を往復し
後は同じような環境の友達、同僚、
話す人が固定されている世界。
そこには統一性は取れるし、話も早いだろうが、
柔軟性や普遍性はあまり育たない。
「~が、デフォルトだろ?」
という物言い自体が、世界の中では特殊であり
狭い世界に属しているのだということ。
不思議なことに、これほどツールが発達して、
いろいろな人とコミュニケーションも取れるし、
世界に出てゆけるし、いろんな体験もできるというのに、
結局はその有利な条件(現在の日本に生きているということ)を捨て
ゲーセンに通ってみたり、酒飲んでTV見てばかりだったり。
いつも考えておかねばならないこと。
自分の考え方、感じ方、論理は個人の中では自由である。
だけど、それが皆に通用するとは限らない。
会社の同僚と話すとき、会社の中の、技術に携わるものの立場として話している。
そのことをしばしば忘れ、世間の皆が同じように考えていると考えてしまうこと。
そのことが、危険であると、いつも自分に警告する。