400年の歴史を語る武家屋敷角館観光協会
角館に現存する6軒の武家屋敷の中で一番格式が高いという石黒家
母屋は築200年経っているそうですが、現在も子孫が住み続け、
家屋の維持をされているそうです。
座敷には石黒家代々の「五月人形」が飾られていました。家紋が「抱き茗荷」って、あ同じ
一部、お蔵が展示室として公開。刀や鐔、小柄などの武具、義父が喜びそうなものから
「解体新書の挿絵パネル」や江戸時代末期の貴重な資料もみるこことができました。
≪未公開のお蔵前で・・・S子ママ≫
お隣の県指定史跡の青柳家
3,000坪の敷地内には、日本に1本しかないという~青柳八重桜をはじめ600種の花木で
四季の彩りを楽しめる庭園
当時の武士の生活を偲ばせる「武家道具館」
アンティークコレクションと喫茶店がある「ハイカラ館」
小田野直武の作品が展示してある「青柳庵ミュージアム」
秋田の暮らしぶりを紹介する「秋田郷土館」があり、すべて観覧可能です。
入口で「ご自由にお持ちください」と配られていたパンフレット
が
気持ちカビ臭い(笑)お蔵のにおい?
六十二間小星兜(62けんこぼしかぶと)
これは「武田流兜」と呼ばれ、戦国時代の大将クラスが身につけた兜とか。
武田流とは、あの武田信玄公のことで、なぜこのような兜が青柳家に残っているのか?
青柳家は、不肖(ふしょう)という~今でいうところの平社員だったそうです。
身分制度が厳しかった当時では、どんなに頑張っても平社員のまま・・・
そんな青柳家が、異例の出世を遂げたのが七代目の映正(てるまさ)さん。
一介の兵器役から、80人もの武士たちの指揮監督をする「組頭及び足軽差引兼任」へ。
平社員から、部長代理か課長クラスへの大出世
映正が優秀だったのは~もちろんですが、妻の存在が大きかったようです。
妻は、藩の重役につながる矢野一族の娘でした。財閥ですね~殿様に送った献金は
今にして一千万とか・・・その結果、青柳家は上級武士の仲間入りを果たしたようです。
名家・矢野家を後ろ盾にしたことで、映正の出世があったのですね。
≪婚礼衣装≫
ここに飾られていた婚礼衣装は、大正二年(1913)7月、
十六歳の花嫁・青柳トミさんのの豪華な内掛け・・・写真では、その美しさが伝わらないかな?
この内掛けをはじめ、着物丈が・・・他の軍服や洋服も、全て小さく感じられました。
当時の日本人の、体格がそうだったのでしょうね~
青柳トミは、十三代耐二(たいじ)の妻であり、昭和の青柳家を守った最後の当主だそうです。
耐二亡きあと青柳家をひとりで守り続け、昭和三十九年、薬医門が秋田県文化財の指定を受けると
青柳家の未来の為に、屋敷を公開。昭和六十年(1985)、トミ永眠、享年九十一歳。
平成元年(1989)、トミの意志を継いで「角館歴史村・青柳家」が開村したそうです。
あら・・・名古屋の甥が生まれた年だわ~
ハイカラ館の二階に、初版の「解体新書」が展示されていました。
「解体新書」は、杉田玄白らが翻訳した西洋の解剖書。。。
この本の挿絵にあたる解剖附図を描いたのは、小田野直武(おだの なおたけ)という武士
青柳家と小田野家は、婚姻関係にあり、家もご近所。。。無名ながら画才に恵まれた直武は、
秋田に来ていた平賀源内に師事し、江戸詰めの際に杉田玄白を紹介されます。
そして原書ではレンプラントが描いた挿絵を「解体新書」では、直武が描くことになったそうです。
日本の医学界の歴史に足跡を残した小田野直武。
青柳家にある「解体新書」は、直武の遺品と伝えられているそうです。
東北の地で、平賀源内とか、杉田玄白とか、歴史上の有名な人物の名前を見るとは・・・
ハイカラ館には、その他コレクターここにありき!といわんばかりのアンティークコレクションが
蓄音器って、最初は筒状のレコード?を再生していたのですね。。。
蓄音器の数・・・半端ないです(笑)
≪エジソン・スタンダードB型≫
なんとも懐かしいビクターのワンちゃん~
一面にカメラ・・・贅の限りを尽くしたみたいです。
バイク(写真はなし)も、インディアン・ライトツィン・・・幕末、明治、大正と日本が西洋文化に開眼し
自国の文化として成長させていった時代。。。
大名時計や映写機ですか??
400年の歴史と、全30000点のコレクション一挙公開~♪
まあ~素晴らしい
※この2軒が有料の武家屋敷。あとは無料で公開中です。
ThankYou
★お・ま・け★
着せましたあとは、包装ですね~どうしましょう?